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昨年後半から相次ぐ著名人の訃報、年明けの震災、飛行機事故。つい2日前には中村メイコさんの訃報。だからなのか、今朝はとても不吉で怖い夢を見て、夜中の4時半にハッと目が覚め、夢の余韻でしばらく寝付けなかった。昼過ぎには、かつてテレビやSNSで大人気だった柴犬まるが亡くなったことを知り(イベントにも行ったし、我が家にはまるのクッションもある)、悲しい気持ちでいたところに、とどめを刺すかのように八代亜紀さんの訃報。ジムに行く電車を待っている間に目にしたそのニュースに、一瞬時が止まったかのように衝撃を受けた。去年、膠原病の為年内一杯の活動を休止されていたけれど、今年1月のコンサートから復帰と発表されていたので、そろそろそんなニュースも出る頃と思っていた矢先のこと。ショックでずっしりと気分が重い。

 

「80歳になっても歌っていたい、その頃には今みたいなコンサートの本数はこなせないと思うから、年に1回位のコンサートで、ロビーには”今日は八代亜紀の生『舟唄』を聴きに来た”と言う若者が沢山来ている、それが夢」

とよく語っていたし、「八代亜紀」としてデビューしてからは一度も仕事に穴を開けたことがないというくらいだから、体が丈夫な人だったはず。だから、この人は長生きするものだとばかり思っていた。人の運命は本当に分からない。

 

去年はパリ公演も成功させているし、50年も休みなく歌い続けて来て、コロナ禍になって初めて「歌わない」日々が続き、それで喉の調子が良くなって絶好調だとも語っていたので、近年は更にやる気に満ちていたはず。もう生歌が聴けないんだなという寂しさよりも、もっともっと歌いたかっただろうな、絵を描きたかっただろうなと思うととても辛く悲しい。僕は数えきれないくらい生歌を聴くことが出来た。コンサート、劇場公演、ディナーショー、公開録画、イベントで。しばらくご無沙汰していたけれど、去年3月、閉館する中野サンプラザでのコンサートに行ったのが最後。あのコンサートは早々にチケットが売り切れていたので、行けて本当に良かった。

 

2016年に八代さんが発表したシングル「JAMAAS〜真実はふたつ〜」が胸に沁みる。モンゴルの国民的な歌のカバー。この世には真実がふたつある。それは「人は生まれて、そして去ってゆく」ということ。若い頃は美しく、終わりが来るなどとは知らずに、宛てない旅をする。でも思えば幸せも命も、借りた物。いつかその日が来たら、感謝して返しましょう。永遠の別れは止まらない。そして、最期の瞬間・・・

 

回りに子供たち いくつもの顔が囲む
午後の優しい陽だまりと 窓辺にはゆれる風
お願いもう泣かないで わたしは笑っているのよ ほら
みんなほんとにありがとう どこかでまた会いましょう…

 

この歌にあるように、最期は安らかだったのかな・・・苦しまなかったのかな・・・。でも、死因となった急速進行性間質性肺炎は、すごく苦しかったんじゃないかな・・・。報道によれば「一時は食欲も回復して退院の時期を考える時もあった」とある。キャシー中島さんのブログによれば、去年11月の終わりに、たまたま車から声を掛けられたという。これが「2023年11月終わり」のことであれば、一時退院していたのかな。(ちなみに、キャシーさんご夫妻を八代さんのコンサート会場でお見かけしたことがあるし、花を贈られていたこともあったので、長年親交があったのでしょう)

 

2005年にはゴダイゴの浅野孝已さんプロデュースによるオムニバス・カバー・アルバム「昭和 Vol. 3」に参加し、八代さんの「日本海」をカバーした。この歌をはじめ、好きな歌が沢山。当分、悲しくて聴けそうにもないけれど…。

 

心よりご冥福をお祈りします。

 

 

ちょうど20年前(2004年)、僕のCD『記憶の森へ』を手に…

 

 

さようなら…

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子供の頃、テープレコーダーで録音するのが趣味だった。歌、電話、トーク、ピアノ演奏。当時録音したカセットテープは、もちろん全部残っているわけではないが、数年前、残っている音源をすべてPCに取り込んでデジタル化した。昨日から今日にかけて、ふと思い出して中学時代に録音した同級生とのアホなトークを聞いていたら、懐かしい同級生の名前が出てきた。その彼は、小学校3年生の時に、警察官だった父親の転勤によって県外に転校して行った。当時、一番仲良くしていたのでとても寂しかったことを覚えている。数年前、彼の名前をネットで検索してみたら、父親と同じく警察官になっていて、県のイベントに参加した時の記事が写真と共に紹介されていた。そして今日久々に、再び彼の名前を検索したところ、地元の新聞のみならず、Yahoo! ニュースの記事にまでなっていて衝撃を受けた。今年4月、拳銃で自死していたのだ。

 

NHK NEWS WEBの記事

福島警察署で男性警部補が拳銃自殺か

 

転校間近のある日、僕が「(ここを去る日が)もうすぐだね」と言った時、「もうその話は止めよう!」と別れを惜しむように返してきたと、録音されたテープの中で、中学生になった僕が回顧していた。その頃たまたま当時の小学校の担任と会う機会があり、彼の住所を訊ねたら「分からない」と言われたことも言及していた。転校以来、僕たちは再会することはなかった。今の時代ならSNSで簡単に繋がることが出来ただろう。その後、同級生の間で彼の名前が出ることはあまりなかった。僕は今でも、ふと彼は幼い頃に過ごした鶴岡のことや我々のことを思い出したり、懐かしく思うことはなかったのだろうかと思うことがある。衝撃的な記事を読んだ後、幼い頃の無邪気な笑顔を思い出しながら、誰がこんな無惨な未来を想像出来ただろうと、胸が痛んだ。

 

僕たちは幼稚園からそのまま隣の小学校に計30人で入学し、6年の間に4人が転校していった。だが、転校生が入って来ることはなく、26人で卒業した。上記の友人が転校する前年には、これまた僕が親しくしていた友人兄弟が、僕が風邪を引いて学校を休んでいた日に、とある事情で突然転校してしまい、病み上がりで登校した時に驚いた記憶が今でも残っている。だから翌年、再び友人の転校に直面し、自分が親しくしている人ほどいなくなると思った。我々の学年は不思議な運命に翻弄されていた。小さな小学校だったので、6学年すべて1クラスずつの為、クラス替えがなく6年間ずっと一緒(もっと言えば幼稚園から中学まで一緒である)。大抵担任の先生は2〜3年で代わるのに、僕たちの担任は毎年変わった。唯一、4年生と5年生の時が2年連続で同じ先生で、6年生の時も持ち上がりになったのだが、ほどなくして病死してしまった。代わりに来た先生(既に定年退職した人だった)も、数週間で体調を崩し辞めてしまう。ようやくその後の若い先生が卒業まで持ってくれたが、結局6年間で6人の先生が担任として来たことになる(病死した先生が一時病欠だった時に来た臨時の先生も含めれば7人)。人数は減るばかり、担任は変わるばかり。他のクラスにはない現象だった。

 

亡くなった僕の同い年の旧友(同級生か否か問わず)は、自死・病死含めこれで4人目。つくづく人の命は儚いと思う。

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谷村新司さんの訃報を目にした時は、全身にヒヤリとしたものが走り、その後愕然としてしまった。病気で休養していたのは知っていたが、まさか亡くなるとは思ってもいなかった。その訃報が報道される2〜3日前、ふと思い出したかのように、谷村さんの歌を何曲か聴いていたもいた。あの時点で既に亡くなっていたのだ。虫の知らせなのか何なのか…。

 

子供の頃、両親が谷村さんの歌をよく車の中で聴いていた。子供ながらに、とてつもなく良い声をしていると思った。歌う姿をまだ観たことがなく、どんな風貌なのかも知らなかったので、僕は、恐らく物凄くカッコ良くて、ダンディーなおじさんなんだろうと想像していた。それがある日テレビで、その姿を観た時は、声とのギャップにビックリ仰天、目が点になってしまったが、年齢を重ねるにつれ、谷村さんの歌の魅力にハマるようになっていき、大学時代で京都に行ってからは何度かコンサートにも足を運び、ドハマリしてしまった。歌は感動的、トークにも痺れ、笑わせられた。

 

あの歌世界にはかなり憧れがあり、実は僕のオリジナル曲は谷村さんの影響を受けているものが幾つもある。と言うと「え?」とされることが多い。ということは、僕は谷村さんのモノマネでもなく、パクっているわけでもなく、影響を受けながら自分流に、自分なりのオリジナル曲が書けているんだなと思って安心する。作者である僕自身しか分からないことなのかも知れないが、例えば「Blue Touch」も「夏景色」も「朝が来れば変わるだろう」も、憧れの谷村さんから受けた影響が少し入っている。

 

しばらくショックを引きずっているが、これからもずっと憧れの人であることは変わらない。「22歳」はよくオーディションで歌っていたが、僕は特にアルバム曲に好きな曲が多い。「棘」「嫉妬(ジェラシー)」「この空の下」「アデュー巴里」「秋のホテル」や、山口百恵さんのアルバムに提供した「ヒ・ロ・イ・ン」など、本当に沢山。それらの名曲をこれからもずっと聴き続けてゆくだろう。

 

ご冥福をお祈りします。

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1ヶ月半も続いた謎の鼻声が治った。

 

ある日突然鼻声になり、耳鼻科に行っても「原因不明」「アレルギーかも」との診断で、薬を飲んでも一向に回復せず、それどころかどんどん悪化していくばかり。最初は鼻声なだけで、鼻水がジョージョー出るでもなく、不思議な現象だと思っていたのだが、次第に鼻水が出るようになり、そしてその量は次第に増え、今度は痰も出るようになる。ある日は熱が出て、風邪でも引いたのかと思うものの風邪っぽい感覚もなく、もしかして大きな病のサインだったりして…などと不安に駆られたりするも、2日程で元通りになる。一体、自分の身体に何が起きているのか?!と不思議でならなかった。そのうち治るだろうと楽観的に考えつつも、このまま一生鼻声なのかも知れないという気にもなった。ネットで検索すると、1年近く鼻声が治らないとか、ずっと鼻声に悩んでいる人たちもいて、自分もこのままだと歌は当分歌えないかもしれないと思った。

 

そんなある日、仕事仲間との何気ない会話の中で、「コロナの後遺症で半年以上も原因不明の症状に苦しみ、病院で検査してもどこも悪くないと言われ、途方に暮れていたけれど、必死に検索したら、とある鍼治療院に行き着いた。そこで2回の施術で治った」と言うの聞き、もしや自分のこの症状もコロナの後遺症なのではないか?!と疑い始めた。

 

というのも、7月上旬にフランスから帰国した直後、コロナ陽性になったのだ。帰国して2日後、微熱と軽い頭痛があったので、外出する前に念の為と思い、薬局で抗原検査キットを買って自分で検査したら、あっという間に陽性反応が出たのだ。トランジットで立ち寄ったポーランドのどこかで感染したに違いない。しかし幸いなことに、37度台前半の微熱と軽い頭痛が2日続いただけで、ほぼ無症状に近いまま、ケロリと治ったのだ。その後、何事もなく過ごしていたのだが、鼻声になったのはそれから1ヶ月後のことだった。調べてみると、コロナの後遺症というのは、コロナに感染してすぐに症状が出るのではなく、2〜3ヶ月後くらいから出始めることが多いという。僕の場合1ヶ月後ではあったが、鼻声が延々と治らないのはおかしいと思い、コロナの後遺症を疑い始めた。

 

仕事仲間から、その鍼治療院を紹介してもらってすぐに予約を取り、3時間後には治療院に居た。コロナの後遺症で上咽頭炎になり、鼻の炎症で鼻声が続く人は沢山いると言う。そこでは、鼻の治療をするのではなく、鍼とお灸で、下がった免疫力を上げ、その免疫力で自ら炎症を治す、という至極単純なメカニズムだった。1週間おきに鍼に通うことにし、2回目の施術から何日か経った時、また発熱した。その時は38度を軽く超えたので、それなりに頭痛と倦怠感もあったが、風邪の時のような重さはなかったので、これまた原因不明だった。鍼治療から日にちも経っているので好転反応とも考えにくかった。しかし、その発熱によって免疫活動が活発になったのが良かったのか、ほんの少し声が良くなった気がした。それから数日後に3回目の鍼治療があり、みるみるうちに声が戻っていった。3回の鍼治療で、あれだけ悩まされた(そして耳鼻科でも治せなかった)鼻声が治ったのである。

 

コロナ後遺症外来では対処療法だと聞く。耳鼻科では出ている症状を止める薬を処方される。鍼治療院で最初に言われたのは、「炎症を止める為に鼻水が出ます。不調を治すために熱が出ます。だから鼻水が出るのも熱が出るのも、そして痰が出るのも、意味があることで決して悪いことではありません。今飲んでいる薬は止めた方が、早く治る可能性があります」と言われ、その日から漢方以外の薬はすべて止めた。それにしても、まさか3回の治療で完治するとは夢にも思わなかった。

 

鍼は本当に摩訶不思議。肩を痛めた時だって、あちこちの整形外科に行っても治らず、鍼で治った。しつこい肩凝りからくる首の痛みも、その時の鍼で治ったのだ。そして僕だけでなく、仕事仲間も鍼でコロナの後遺症が治った。不調だから鍼で治すというより、免疫を上げる鍼を定期的にやっていれば、健康を維持出来て、病気の予防になるらしい。

 

今もコロナの後遺症で苦しんでいる人が沢山いると思うが、1人でも多くの人が鍼治療の有効性とその素晴らしさを知ってほしいと心から思う。

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<「恩人の言葉」からのつづき>

 

Y先生に送った年賀状が宛先不明で戻ってきた時は心底落胆した。引っ越したのだろうが、しかし何処に?先生の近況を知る術もなく途方に暮れた。出会った頃は九州でキリスト教系の幼稚園の園長先生をされていたが、年齢から考えてもう退職をしているだろうと思った。その時ふと思いつき、インターネットでその幼稚園の住所を調べ、現園長先生宛に、Y先生の引っ越し先をご存知であるならばこの年賀状を転送してほしいというメッセージを含めた丁寧な手紙を書き、切手を貼った封筒を同封し送った。園長先生がY先生の転居先を知っていることを祈った。Y先生の居所を探し当てるには、それしか手立てがなかったからだ。しばらく経ってから、ついにY先生からメールが届いた。

 

「年賀状いただきました。たくましい青年に成長されました。嬉しく思います。あの時は留学のお世話が充分出来なくて申し訳なく思っておりました。その後、如何なさったか心に留めつつも、娘の無過失の交通事故死の現実から立ち上がることの出来ない日々を13年間過ごして来ました。昨年あたりから、娘は『そんなに多くを悲しまなくても、宇宙といわれる美空の彼方を、青空の中を神のみ手に守られて、痛みも傷も苦しみもない世界に居るから、心配はほんの少しにして自由に生きて欲しい』というテレパシーを送ってくれました。昨年の8月は家族3人で事故現場を13年ぶりに訪ねて花を手向けてきました。心の癒しの中でいただいた年賀状とお便りを、嬉しく拝見させていただきました。10年間の日々の中で多くを学び、多くの経験をしてミュージシャンとして進路を取っていらっしゃる。素晴しい事です。ホームページを拝見させていただきました。東京にはよく行きますので応援に行きます。来月は東京に行きます。ゆっくりお話出来たらいいな、と思っております。」

 

僕とY先生はその翌月、13年ぶりに再会した。現在は静岡に住まわれているとのことで、「春になったらご両親と遊びに来ませんか」と誘われた。2005年4月、僕は母とY先生ご夫妻が待つ静岡へと向かった。1泊2日で富士山をY先生のご主人が車で案内してくださった。Y先生はあの頃と変わらず明るく楽しいままだった。そして初めて会った1992年の思い出話に花が咲いた。

 

「カリフォルニアでの2週間は楽しかったね。私はグループリーダーとして何度か参加したけど、あの年のことはよく覚えていますよ。功君はどうしてもアメリカに留学したくて、毎日私に話しにきてたね。日本に帰ってきてからも、『先生、どうしてもアメリカに行きたいんです』と電話をくれて。両親を説得してほしいと言われて、どうすれば理解してもらえるか、いろいろ考えました。そういう強い思いがあったからこそ、何かしてあげたいと思った。あ、さっきから私ばかり喋ってるね。功君のこれまでのお話も聞かせて!」

 

富士山麓での緩やかな時間の流れを感じながら、僕は人との出会いの大切さを実感していた。Y先生は、僕の人生を豊かにするきっかけを与えてくれた人であり、Y先生なしに僕の人生を語ることは出来ない。

 

その後、メール、電話、年賀状での交流は続いたが、再び会うチャンスはなかなかなく、また昨年の年賀状では体調を崩していたことを知った。僕は今、大学時代の恩師に2週間に一度オンラインでフランス語のレッスンをしてもらっており、毎回エッセイを書いて提出するのだが、Y先生のことを書いたところ、その恩師はいたく感動し「今度、Y先生のことを(フランス語で)歌にしたい!」と張り切っていた。10月に帰省した際には、両親とY先生の話になり「お元気かな」と話をしていた。

 

11月になって、Y先生のご主人から葉書が届いた。「愛妻が・・・3月・・・天に召されました」という文字が断片的に目に入り、僕は郵便受けの前から動けなくなった。僕がフランス語でY先生に関するエッセイを書いた時、そして10月に帰省して両親と話をしていた時、既にY先生は亡くなっていたのだ。先生の笑顔、笑い声、言葉、そしてあの交通事故の悲劇、ご病気による最期の日々を思うと胸が締め付けられた。しかし最後のひとときをご主人と十分対話をしながら祈りを捧げたということを知り、それに救われる思いだった。思い返せば、僕は先生と出会って「恩人」と思いながらも、実際にお会いしたのはたったの3回だけ(カリフォルニアでの2週間、東京での数時間、静岡での2日間)。しかし、人と人との心の繋がりというのは、距離や回数ではない。

 

先生のことを思うだけで悲しくなる日々が続いた。きちんと先生に感謝の想いを伝えていたのだろうかと、そんな自問を続けていた。ふと、僕がフランス語でY先生に関するエッセイを書いたのはいつのことだったのかと思い、パソコンのフォルダを開けて「作成日時」を確認した。驚いたことに、それは2022年3月21日だった。もしや、と思い、カリフォルニア研修旅行の名簿を探し確認したところ、僕が先生と初めて出会った旅の始まりが1992年3月21日だったのだ。あれからちょうど30年。その記念日に、先生のことをエッセイに書き、それを読んだフランス人の恩師が感銘を受け、今、Y先生をテーマにした歌を書いている。いずれ僕が曲を付け、僕が歌う。不思議な巡り合わせだ。

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<「恩人との出会い」からのつづき>

 

けたたましく電話が鳴った。Y先生だと直感した。同時に嫌な予感がした。両親が東京でY先生に会うことになっていた前日の夕暮れ時のことだった。もう30年も前のことだが、あの電話の音は忘れられない。

 

受話器を置いた母が「Y先生だった。今日娘さんが交通事故で亡くなったんだって……」と言った時、僕は絶句した。アメリカの大学に留学していた2番目のお子さんが、夏休みで帰国し、ご友人とのドライブ中、対向車と衝突してしまい、すぐに病院に運ばれものの残酷なことに命を落としてしまった。「お子さんを亡くしたにもかかわらず、電話口でのY先生は泣かずに気丈だった」との母の言葉に、Y先生の悲痛な胸のうちを想像し、悲しみに暮れた。

 

東京での約束はもちろんキャンセルとなった。その後、Y先生はお子さんを亡くされた壮絶な想いの中、留学中の息子さんに頼んで、僕のためにアメリカの良質な私立高校のパンフレットを集めて下さった。僕はそれらの資料を大事に眺める日々が続いた。

 

僕の頑なな心に両親も少し折れかけていた夏から秋にかけて、多少なりとも追い風が吹いていたはずだったのに、いつの間にか風はくるりと向きを変えていた。まるで僕をアメリカには行かせまいとする何かがうごめいているかのようだった。

 

10月には、日本に衝撃的なニュースが飛び込んできた。アメリカの高校に1年間留学していた日本人高校生が、ハロウィーンの日に射殺されたのだ。「Trick or Treat!(お菓子をくれないといたずらするよ!)」と言いながら近所の家々を巡るのがアメリカのハロウィーン。日本人留学生が訪ねたその家の主人は、見知らぬ彼に恐怖を覚え「Freeze!(フリーズ=動くな)!」と言ったが、日本人少年は「Please!(プリーズ=どうぞ)!」と聞こえたので家の中に侵入していった為、銃で打たれて即死したと報道された。本当に「Freeze」を「Please」と聞き違えたのかはもちろん分かるはずがないので、この部分はマスコミの思い込みに過ぎない。しかしいずれにせよ、アメリカの銃社会の現実を目の当たりにして、両親の心はスタート地点に戻ってしまった。

 

僕は両親に従うしか術がなかった。中学を卒業したら即アメリカの高校に留学するという道は絶たれた。しかし、地元の高校に進み、在学中の1年間の留学は許可するという約束を果たしてくれたことに、感謝せねばならない(そして実際、それは僕の人生にとっては正解の道だった)。両親と闘っていた半年の間も、アメリカ留学前も、そして滞在中も、Y先生には時々手紙を書いていた。僕はいつでもY先生のことを想っていた。Y先生がいたからこそ勇気を持てた。

 

Y先生と出会った中学生の頃、旅の終わりに、Y先生は僕のノートにメッセージを残してくれていた。

 

「君の持ち味は、すばらしいものがあります。得意とする音楽など大切にして育んで下さい。自分の人生は自分で切り開かないと、人は開いてくれません。どんな小さなことでも夢に描けるものは描いて、心の中であたためて下さい。そして高橋君の人生の中で実現出来ることであれば、その夢を実現の姿へと成長させて下さい。君の人生が実りある豊かなものになることを祈っています。ハレルヤ!」

 

中学校にあまたいる先生の誰が、こんなことを言ってくれただろう?そればかりか、思春期真っ只中にいる少年の心を平気で傷つけるような言葉を投げてくる先生たちに囲まれていた僕は、Y先生のこの言葉を胸に生きていた。大人になってからも、Y先生への想いを常に抱いていたものの、連絡は取らなくなっていた。28歳になっていた2005年12月、年賀状を書いている時、ふとY先生のことを思い出し、近況を知らせるために年賀状を出した。

 

しかし、1月、その葉書は宛先不明で戻ってきた。

 

<「恩人との再会、そして別れ」につづく>

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14歳(中学2年)の春休み、とある非営利団体の企画で、日本全国の中学生約200人と共に米国カリフォルニア州オーハイで2週間過ごす機会に恵まれた。地元の人たちとの交流を含めた研修旅行である。15人程のグループ分けがなされ、各グループには大人のリーダーが付いていた。僕のグループのリーダー・Y先生は40代半ば〜50代前半で、幼稚園の園長先生をしていた。Y先生は知的で優しく、かつ気さくでユーモアのある人だった。僕はそんなY先生に対してすぐに親しみを抱いたのだが、最大の関心事は、先生の3人のお子さんが日本の中学を卒業後アメリカに留学しているというところにあった。先生のお話に強く惹かれた僕は、来る日も来る日も先生に留学についてあれこれ訊いていた。それまでは、いつか留学したいと漠然と夢見ていたものの、中学を卒業してすぐに留学しようなどと考えたこともなかったが、日本の学校の教育に希望を見出だせないでいた14歳の僕は、Y先生の話を聞いてからというもの、すぐにでもアメリカの高校に行き、その後はそのままアメリカの大学に行くことしか考えられなくなってしまった。

 

2週間の旅を終えて帰国するや否や、僕は両親にこの希望を伝えたが、両親は「即答できない」と大きな戸惑いを見せた。むしろ反対しているように感じた。両親にとってみれば、僕の言っていることは、一時の気の迷いか、日本の教育から逃れるための口実か、単なる漠然とした夢でしかないと映っていたに違いない。しかしそれは当たっていたと思う。平々凡々に過ごしてきた14歳の子供に「憧れ」以外の、どんな「立派な目的」があると言えよう。

 

こうしてそこから両親との闘いが始まった。僕は厚さ3センチほどの「高校生の為の留学ガイドブック」を買って来て、全ページを暗記するかの如く繰り返し繰り返し貪る日々。僕が毎日しつこく「アメリカに行きたい」と親に言うものだから、よく口論になった。両親は、日本の高校を卒業することを求めてくる。そうすれば、2年生の時に1年間の交換留学も許すし、卒業後は日本以外のどこの大学へでも行っていいと言う。しかし、僕はその提案を受け入れることがどうしても出来ず、日々悶々としていた。どうすれば説得することが出来るのかと悩み、僕は度々、熊本のY先生に電話をし、どうすれば両親を説得出来るか相談していた。そんな僕の強い思いを受け、両親はアメリカ留学の話を聞くために、Y先生に会いに行くことを決める。当時はインターネットなど存在せず、何の情報もなく、また留学に精通している知人もいなかったので、頼るべき人物はY先生しかいなかったのだ。母がY先生に電話をすると、Y先生は「ここは九州の熊本ですよ!」と驚いた。山形からわざわざ九州まで赴くよりも、ちょうどY先生は翌月仕事で東京に行く予定があったので中間地点である東京で会うということになった。

 

Y先生との出会いから4ヶ月が過ぎていた。8月にはY先生と両親が3人で会うことになった。目標に一歩近づいたような気がして、僕の心は希望に震えていた。両親は東京行きの電車の切符を用意し、すべてが準備万端のはずだった。しかし、Y先生と両親が出会うことはなかった。

 

<「恩人の言葉」につづく>

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仕事が休みの日でも、スマホが手元にあるとつい仕事のメールをチェックしてしまい、それで仕事のことが妙に気になってしまうので、極力見ないようにしている。しかし、長期で休むと、ついつい見てしまう。先日も久しぶりに帰省していたのだが、メールを見てしまうと、どうもソワソワして、こんなにソワソワしているくらいなら、早く仕事に戻ってしまいたい、なんて思ってしまう瞬間も。しかし実際に休みが終わり仕事に戻ると、「あー、やっぱり帰省中は良かったなぁ」なんて、ちょっと前の過去に思いを馳せる。そんな(損な)性格!

 

そもそも僕は楽しみ下手なのかもしれない。旅行にしても、ウキウキする出発前日が楽しさのピークで、当日からは旅の終わりへのカウントダウンが始まり、「あと何日で旅が終わってしまう…」などと考えてしまう質なのだ。旅の後半になると「あの時はもう5日しかない、なんて思っていたけど、あの時点では5日もあったんだ・・・今となれば、もう2日しかないのに」なんて悲観的になる。嗚呼!だから旅は出発前夜が一番楽しい。

 

友人と食事に行く、それは楽しみのひとつなのに、当日を迎えればあっという間に終わってしまい、「あー、夢は儚い」などと思ってしまうことも。

 

ライブにしてもそうだった。最近になってようやくライブの本番そのものを楽しめるようになったが、以前はステージが「楽しい」という感覚が全くわからなかった。ミュージシャンや俳優が「本番が一番楽しい」と言うけれど、その「楽しい」ってどういうことなんだろう、と思っていた。実際のステージは、客席で観ているのとは全く違い、こちらはプレッシャーや集中力との戦いで、楽しめる余裕などなく、終わったら終わったで「あれがダメだった、あそこがダメだった」などと反省しきり。それでよく20年も続けてきたものだと思うが、ここ近年、ライブの醍醐味を体全体で感じ始め、ステージでパフォーマンスをするという楽しさというか快楽を覚えるようになった。むしろ、ステージ本番に臨むまで、たくさんの苦しさを経ているわけだから、本番で楽しまないと「損」なのだ。全部出し切って、あの夢の世界を楽しむこと、それが分かるようになった今は、あのステージ本番がいつも恋しい。

 

やっぱり「今」を楽しむこと。それが一番!日常生活でも休みの日でも、それが出来たら・・・いいなぁ。

 

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高橋功 コンサート2022 新春
〜龍宮城へようこそ〜

2022年1月16日(日)
12時開場/12時30分開演
会場:南青山MANDALA

チケット料金:3,300円+1ドリンク別

 

【出演】

荒武裕一朗(ピアノ)
村山政太(ギター)
永松徳文(ベース)
山下正揮(ドラム)


スペシャル・ゲスト:西山康平(俳優)

 

【イープラス Streaming+にてライブを生配信】

視聴料金:2,000円
視聴券販売期間:2021年12月1日(水) 10:00 〜 2022年1月22日(土) 20:00
生配信開始時間:2022年1月16日(日)12:30
アーカイブ期間:生配信終了後 〜 1月22日(土) 23:59

 

チケット予約、お問合せはこちらまで。

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Facebookをチェックをしなくなって久しい。そんな僕が、今日は珍しくFacebookを開いて、細かく投稿をチェックしていると、アメリカ留学時代のホストブラザーの投稿が目に留まり、次の瞬間血の気が引いた。彼の父親が亡くなったことを知らせていたのだ。つまりは、僕のアメリカ留学時代のホストファーザーである。25年以上も前、高校2年生だった僕がアメリカで1年間過ごしていた時の、ホームステイ先のお父さん。お父さんとはいえども、僕とは13歳しか年が離れておらず、当時彼はまだ30歳だった。その人が亡くなった。まだ57歳という若さで。

 

あまりにも信じられず、他の投稿を読み進めていくと、ホストシスターも彼の死を知らせていた。肝臓を患っていたようだ。更に、ホストマザーのページに載っていた直近の彼の写真に衝撃を受けた。あの屈強だった男が、まるで別人のように痩せこけていたから。去年の9月に危ない状態だったのを乗り越えて、なんとか3月の誕生日を迎え、更にはつい先日、結婚記念日を迎えたたことを幸せそうに知らせてはいたけれど、病的な姿には目を疑うばかりだった。

 

少し時間をおいて、ホストシスターの投稿にコメントを付けた。すぐに彼女は僕のメッセージにハートマークを付けてくれたが、さすがに今日亡くなってまだ時間も経過していない家族に詳しい状況を訊くことははばかられた。すると、僕のコメントを見たホストマザーの親友が、すぐに僕にメールを送ってきて、状況を知らせてくれた。

 

肝臓を患ってはいたものの、彼の死は急であり、予測していなかったこと。先月ジョージアからフロリダに引っ越して新生活を始めたばかりであったこと。ホストマザーの親友である彼女が、つい先週、夫妻に招待されてフロリダに遊びに行って来て、2人に会ったばかりであったこと。11日にヘルニアの手術を受けた影響で調子が悪かったこと。肝臓が毒素を排出出来ず、一度に20〜30リットルの水分を排出しなければならず、手術でさらに水を抜いていた為に縫合糸が裂けて腹部が破裂したことで、苦しんでいたものの、まさか亡くなるとは思っていなかったこと。ゆえに家族は非常にショックを受けていること。

 

何度も何度もメールを読み返した。アメリカ時代の色んなことが蘇ってきた。1年近く一緒に暮らしていた人である。思えば、何不自由なく、何の心配も不安もなく、当たり前のように異国での日常生活を安心して送ることが出来たのは、ホストファーザーのお陰であったことを、今更ながら実感し、感謝の念しかない。

 

2015年に仕事で渡米した際、20年ぶりにジョージアを訪れ、ホストファミリーに再会していたが、ホストファーザーは仕事の為ジョージアにはおらず、再会を果たせないでいた(その際、今回メールをくれたホストマザーの親友とも再会している)。その時電話で話したのだが、20年前とは違って随分穏やかで優しい話し方になったな、という印象を受けた。またいつかの再会を約束したが、結局、二度と会えずじまいとなってしまった。

 

ふと、彼の両親(僕にしてみれば、アメリカでのおじいちゃんとおばあちゃん)のことが気にかかった。2015年の再訪時に、ホストファーザーには会えなかったが、おじいちゃんとおばあちゃんには再会しており、その時は元気だった。ホストマザーの親友に訊いたところ、まだ健在とのことだった。恐らく80代だろうが、57歳の息子を亡くした悲しみは計り知れない。

 

僕にとってはいまだに皆アメリカでの家族。あの時の再会でそう実感した。1年弱という長いようで短い時間、前半は辛いことが多く、後半は楽しいことが多かった。年々、辛かった記憶は薄れ、楽しかったことばかりを思い出す。あの沢山の煌きの時間の中に、ホストファーザーが若い姿のまま、僕の心の中に存在している。

 

ホストファーザーよ!57歳の若さで、親より先に死ぬなんて!!しかも新しい生活を始めたばかりの矢先に、ホストマザーを残して!!!

 

青春時代の強烈な1年はホストファーザーなしでは語れない。Facebookを開くことすら稀になっていた僕が、彼が亡くなったこの日に、まるで導かれたかのようにFacebookを開いたことは不思議でならない。これを虫の知らせというのだろうか。そして、メールで詳しい状況を教えてくれたホストマザーの親友の機転。まるで僕の想いが届いたかのように。不思議な1日だった。ホストファーザーのご冥福をお祈りします。

 

1994年12月、ホストマザーとホストファーザーとで、コロラドにスキー旅行へ。

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NHK BSプレミアムで再放送していた「澪つくし」にハマって、それを日々の生きがいとしていたのだが、あっという間に半年は過ぎ、「澪つくし」も先月末で最終回を迎えた。このドラマ、小学校2年生の時、家族に後ろ指をさされながらも、毎朝ビデオに録画して観ていたくらい、当時もハマっていたのだが、今回30年以上ぶりに観て、時々覚えているシーンやセリフもあって、それだけ子供にとっても印象深いドラマだったんだなぁと思うと同時に、自分の記憶力の良さにも、改めて、ある意味、ちょっと恐くなる。(最終回を迎えて「澪つくし」ロスとなり、この間は、舞台となった銚子にもノコノコ出かけて、ぶらり散策して、名作に想いを馳せた)

 

 

↑「澪つくし」でも使われた銚子電鉄の駅にて

 

で、今は同時間に再放送している「あぐり」を観ているというわけだ。こちらは当時観ていなかったので、今回がお初となるわけだが、先日、理不尽な件で学校に呼び出されたあぐりの夫(女学校時代に結婚している)が、先生たちに対して正論を吐いてスカッとするシーンがあり、それを観た夜、僕は中学時代の夢を見た。テストの答案用紙に、教師からとても理不尽なメッセージが長々と書かれていて(内容はよく覚えていないが、間違った答えに対し「そんなことも知らないなんて恥ずかしい」みたいなことが延々と嫌味たっぷりに書かれていたような感じ)、子供ながらに傷ついた僕は、職員室に行って、入り口のところで、その教師に向かって大声で「こんなこと書くなんてヒドイ!」と叫んだ。すると近くにいた養護教諭が「それはヒドイね。そんなこと書くもんじゃない」と言ってくれたのをきっかけに、僕はその教師の元に近づいて、正々堂々と抗議するのだが、右から左状態でほとんどまともに僕の話を聞かない。苛立った僕は、「それならば校長先生に言いに行く」と言ったら、ようやくハッとしたその教師、僕を制止しようとしたが、それを振り切って、僕は校長先生を探しに行った。しかし、夢の中で、校長先生は新しく来たばかりだった為、顔が分からず、タバコをふかしながら携帯電話で話している複数のおじさんたちに向かって(ちなみに僕が中学時代はケイタイなどなかった)、「校長先生!!」と大声で叫ぶと、ひとりが反応した。あまり見た目のよくないその校長らしき先生は立ち上がり、どこかへフラリと消えてしまった(ちなみに実際の僕の校長先生は立派な人だった)。

 

という、後味の悪い夢を見てしまったのであーる。僕は普段からよく家族や友人たちから「記憶力がいい」「よくそんなこと覚えてるね〜」と感心されるが、それはそんなに良くないことだと僕は思っている。良い思い出だけでなく、悪い思い出も鮮明に覚えているからだ。こんな夢を見たのも、中学時代に、教師から言われたヒドイ言葉や、思春期の子供に対して「それ言うか?」と思うような傷つく言葉、しかも「教師から言われた」ということでムカついたり、傷ついたりして、いまだに記憶から消えず、ふとした時に思い出して、ムカーーーっ!ときたりする。今ならば「それはヒドイ!」と面と向かって言えても、子供は先生に対してそんなことは言えないし、色々と理不尽なことが多かったなぁ・・・と思ってしまう。

 

「良い思い出も鮮明に覚えている」なら、それはそれでいいじゃないか!と思われそうだが、これまた違い、先日ラジオでも言っていたが、「現在」と「過去の楽しかった思い出」を戦わせると、絶対に「現在」は決して「過去」に勝てないのだそうだ。つまり、楽しい思い出を振り返り「あの頃は良かった、楽しかった」という気持ちになると、どうしても過去には勝てないから、人は前だけを向いて歩くべきで、思い出とは戦うべきではないらしい。これを聞いてハッとしてしまったわけである。僕は結局、良い思い出も悪い思い出も、結構な頻度で思い出すのである。良い思い出はせつなくさせ、悪い思い出はイラつかせるばかり。スッキリしない春ですなぁ〜。

 

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