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あれは一昨年(2018年)の11月のある日、突然、中国のとある大学の関係者から、ホームページに掲載している僕の文章を、今度出版する日本語の教科書に使わせてほしいと連絡が来た。なんでも、その大学の日本語学科で使用する教科書とのことで、使用料も支払うとのことだった。あまりにも唐突だったのでビックリして、これは新手の詐欺か何かか?!などと、僕はすぐに信じることが出来ず、知り合いの大学教授に相談をしたら、「大丈夫なんじゃないか」という結論に至り、承諾した。

人生、何が起こるか分からないものだ。気まぐれで書いていた自分の駄文が、外国の大学の教科書に掲載されるなんて、夢にも思っていなかった。僕も外国語大学出身で、語学専攻だった身。語学学習に自分の文章が使われるというのは、面映い気持ちもあれど、やはり嬉しい。

そしてようやく教科書が完成し、先日送られてきた。思ったよりもずっしり重い。僕の文章は3ページにも渡って掲載され、更には2ページに渡り練習問題まで出ている。思わずどれが正解なんだろう?なんて考えてみたりして!

 
 


ちなみに、掲載されたのは以下の文章。もし興味があればお読みください。

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「曖昧な日本語」 

日本語という言語は本当に曖昧だ。

中学時代、クラス内で何かを話し合い、意見を言う時間はいつも静かだった。人前で自己主張するのが苦手な日本人はちょうどこの思春期の時期から顕著になる。意見のある者は言うが、大抵の者は主張しない。当てられた生徒が言う言葉は「特にない」だった。ここで問題なのは「特に」という言葉。誰かが「特にない」と発言すると、担任の先生は決まって「特にない、ということは意見があるということだから、言いなさい」と注意した。ごもっともである。もう10年以上も前に、散々聞かされたこの言葉を折に触れて思い出す。「特に」というのは、「ちょっと」と同様に日本人が何気なく発する言葉で、「特に」意味はないように思われるが、実際の意味としては、「意見はあるけれど、別に言わなくてもいい」ということになる。後に、大学でフランス語を専攻することになる僕であるが、外国語に触れれば触れるほど、普段は気にもかけないような日本語の細かい部分が気になるようになり、多くの表現が曖昧であることに気づくようになった。外国語に翻訳すると如何に日本語には曖昧な表現が多いかが分かる。通常、日本語は主語や目的語が省かれることも多いので、動詞や名詞が何を指し、もしくはどの単語に掛かっているのかを明確にする必要がある英語やフランス語に訳す時は、曖昧な日本語からあらゆる意味やニュアンスが推測される為、的確な訳に辿り着けず、難儀に思えることがままある。

日本語における日常会話では、何気なく「特に」「多分」「〜だと思う」「〜かも」と使っているのを耳にする。日本人といえば「maybe」と言われるほど、曖昧な民族だと思われているようだが、その傾向は年々強くなっている。何かを食べた時に「これおいしいかも」、好きだなと思うものに対して「好きかも」、行きたいと思うことに対して「行きたいかも」と、断定を避けて言う。自分のことなのに。おいしいかも、ということは、おいしくないかも、という意味も含まれるということは意識しないでの発言であろうが・・・。

ここ十数年で、はびこっている「〜的」というのも、断定を避ける、という意識から若者が使い出した、とテレビで言っていた。本来は複数ある内のどちらなのかを示す際に使う「〜の方」という言い方もしかり。レストランで「おタバコの方、お吸いになられますか?」と言われると、タバコと他に何を吸う?と思ってしまうし、出身地や住んでいるところを聞いた際に、例えば「大阪の方」と言われると、本来は「大阪方面」という意味になり、「大阪」と断定しているわけではないから、京都かも知れないし滋賀かも知れない、はたまた広島かも知れないし九州も知れない、などと僕はあまのじゃく根性を大発揮してしまう。それから、コンビニで800円の買い物をして千円を支払った場合、「千円からお預かりします」とよく言われるが、千円から、ということは、本来の意味としては、もっと払わなければならない、ということになる。

よく使う「結構です」というのも曖昧である。肯定、否定どちらの意味にもなるからだ。また、「パソコンとか持ってる?」につく「とか」や、「パソコンなど持ってますか?」の「など」は、決して、パソコンに限らず、それに似た機械も含めて持っているか?と訊いているのではない。あくまで聞き手は「パソコン」を持っているのか聞きたいだけなのだが、ぼかすかのように「など」や「とか」が使われてしまう。もちろん、外国語に訳す際はこの場合の「など」や「とか」は省く必要がある。ああ、ややこしい・・・。

このように、どんどん曖昧化していく日本語。表現方法として、僕も作詞をする際はわざと曖昧にしたりすることも多いし、時に日本語の曖昧さが美しく響くこともあるが、日常会話の中で曖昧化が進んでいくと、これから日本語はどこまで曖昧になるのだろうと、いささか不安になる。断定することはなくなってしまうかも知れない。日本語の曖昧さは、周囲との調和を保つ為だと言われるが、正に言葉は国民性を表し、そして文化なのだ。
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2016年に亡くなったピアニスト・中村紘子さんの最後のエッセイ集『ピアニストだって冒険する』を読んでいたら、長い間深い土の中で眠っていたクラシック音楽熱が呼び起こされてコンサートに行きたくたまらなくなり、ヨーロッパ旅の記述を読めば元々あるフランス熱が更に高められて5月の旅行に早く行きたくてたまらなくなり、あまりにも中村さんという人が面白くて過去の著書も全部読みたくて、今すぐ全部読みたくてたまらなくなり、一言で言えば身悶えさせられている。

僕が12〜3歳頃、地元にコンサートに来られて、両親と一度聴きに行けたことは、今になって思うと非常にラッキーだったと思う。超が付く満員で、客席が足りず、ステージの上にまで客席がいた程の人気ぶりで熱気も凄かった。ピアニストは、ステージに登場してピアノの前に座り、しばーらく精神統一の時間を持つので、聴衆は静寂の中で今か今かと始まりの音を待ちわびる。永遠にピアノを弾き始めないのではないかと思う位、時間がかかるピアニストもいる。それなのに中村紘子というピアニストは、椅子に座り切らないうちからピアノを弾き始める、という形容が大袈裟とは思えない程、パッと演奏を始めるのが印象的だった。

5歳からピアノを習い始めた僕と中村さんには共通点がある。なーんて書くことすら憚られるほど、世界的な大ピアニストに対して、とてもとてもそんなことは言うのは恐れ多いけれど、「ピアノ」という共通項があるのは事実なのであるが、本を読んでいたら、思わず声を上げそうになった位(僕は電車の中でしか本を読まない)、共通項どころか、共感するというか、「同じだー!」と思う箇所があった。

それは、1965年のショパン・コンクール入賞後にヨーロッパでコンサートをするうちに、当時留学中だったニューヨークよりも、ヨーロッパの方がはるかにご自身の感性にしっくりとくることを知ってびっくりした、という話。というのも、ニューヨークにどこか馴染めないと思いながらも、中村さんは自分がとても「アメリカナイズ」されていると勝手に思い込んでいたというのだ。更には、アメリカには2人の「生涯の友」がいて、ファックスやメールで毎日のように近況報告をし続けているというのに、「アメリカ人はどうも苦手」という。

かくいう僕も、十代の頃は超が付くほどアメリカに憧れて、アメリカなしでは生きていけないという位かの地に恋焦がれている自分を「アメリカナイズされている」と思い込み、自ら望んで高校時代の1年間をアメリカで過ごしたけれど、実際に住んでみると、どんどん興味関心は薄れ、肌には合わない国と思うようになっていった。その後、大学でフランス語を専攻して、これまた1年間フランスに留学した時は、この国に身を置いているだけで幸せと感じ、文化や人々の感性も、自分にとてもしっくりくることに気が付いた。

かといってアメリカでの1年間がつまらなくて不幸だったかというと、そういうことはなく、学校生活における人間関係には恵まれて、特に後半はだいぶエンジョイしていた。今でも当時を思い出すと、楽しかったことばかりが思い出されて胸が熱くなる。当時に戻りたいとさえ思う。実のところ、フランスよりもアメリカの方が今でも連絡を取っている友人がいて、フランス人よりもアメリカ人の方が友人は多い。にもかかわらず、これまた中村紘子さん同様、アメリカ人はどうも苦手、という意識がある。

つまるところ、1+1は必ずしも2ではない、ということですね。十代の頃はとにかく飢えていた。食に、ではない。文化的なものに。田舎にはなかなかコンサートに来る歌手や演奏家がいなかったので、知らないピアニストであろうが誰であろうがコンサートに来るとなれば飛びついて、その度に感激しまくって、しばらくはその余韻の中にいた(ドイツのヴェルニゲローデ合唱団が来た時などは、その合唱の美しさに大感激して、毎日会場で購入したCDを聴き、ドイツに留学することを本気で考えて、留学斡旋団体に問い合わせをした程だ)。その後、都会暮らしで、いつでも望むコンサートに行ける環境に身を置くようになると、クラシックには一切見向きもせず、ポピューラ音楽三昧になった。でも僕の作る音楽には、クラシックの影響も少なからずある。中村さんの本を読んだ後、我慢できず、クラシック・ピアノのコンサートのチケットを一気に2公演分購入した。クラシックに再び心が傾いている今、今後の自分の音楽活動にどう影響を及ぼすのか、楽しみなのである。
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僕とフランスとの関わりが本格的にスタートしたのは1996年、京都外大でフランス語を専攻し始めた18歳の時。ちょうどその年はフランス語学科が創設されて30周年で、僕は記念式典で在学生代表としてスピーチをした。その式典のハイライトは、京都外大の名誉教授、片岡美智先生の講演だった。その時89歳だったこともあり、最後の講演になるだろうと言われていた。1939年にフランスに留学し、1950年に日本人女性として初めてフランスで文学博士号を取得された片岡先生が、講演の最初に、
「私は人生においてフランスと関わることが出来て本当に幸せでした」
と仰ったのが、これからフランス語を習得しようとしている僕にはとても印象的だった。きっと自分もそう思うのではないかと思っていたような気がする。講演後のパーティーで、僕は興奮気味に先生に話しかけた。すると先生は僕の顔を見て開口一番こう言った。
「あなた、私の講演の時、寝てたわね」
ズドーーーーン!穴に入りたい気分・・・だったかどうかは覚えていないが、先生のお姿とお声は今でも鮮明に覚えている。(片岡先生は2012年に105歳で亡くなられた)


(1998年発行の受験生向けの大学案内)

それから今迄、フランスとフランス語は常に、僕に幸福と良き出会いをもたらしてくれる。ハイライトはやはり留学していた1998年〜1999年の1年間だったと思うが、今は旅行者としてフランスの地に行けるだけでも幸せだと感じる。フランスに降り立つと、魂が解放されたような喜びに満ち溢れる。フランス語を忘れて久しいけれど、聞こえてくる言葉も目に入る言葉もフランス語であることが嬉しい。ふと「この先フランスに住んだら・・・」と夢想する。恐らく、何が何でもフランスで仕事してフランスに住みたい!という野望があるならば、何とかしてその道を探すだろうが、大学卒業の時点でその思いはなく、それは今でも変わらない。ゆえに現実的ではないので、夢想する。不動産屋に貼られている物件情報を何気なく見ていると、「あ、この家なら買えそう」と思ってしまう。でも次の瞬間「買わない」と心の中で呟く。夢想するだけ。住めば都、ならぬ、住めば現実。僕は今旅行者としてたまに訪れるから、100%楽しいだけで終わるが、生活するとなるとそれはたちまち現実となり、夢のような日々ではなくなる。それは1年という短い留学生活を通してでも充分に分かっていることだ。日本で仕事をして、日本で生活して、たまに旅行者としてフランスに来る。これが正に「いいトコ取り」だと思う。いつまでも夢を見ていられるのだ。やっぱりフランスっていいな〜、フランスにまた住みたいな〜・・・と。かの地に住んだら住んだで、アレコレ大変なのも分かっているのだ。

突然2年前辺りから、頑なまでのフランス一辺倒に豹変した僕は、今やフランス以外どの国にも興味がなくなってしまった。留学中も散々「フランス以外の国々も見てみたい!」とあちこち行ってみたけれど、それも今は昔。これからはフランスのどの地方を言われても「そこ、行ったことあります」と言えるように、行ったことのないフランスの町に行ってみたいのだ。1年に一度では足りないというか、まるで二重生活をするように、「また行くの?」と言われるように、そして先方からは「また来たの?で、また来るの?」と言われる位、行ったり来たりしたい。来年からは1年に2回は行こうと思っている。これまでもマイレージを貯めていたけれど、これからはもっと貯めて、1年に2度、無料航空券で行くつもりだ。

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20代の頃はとにかくチャンスを掴む為に、ありとあらゆるオーディションを受けていた。どこの会社の何のオーディションだったかは全く記憶にないが、ある一場面だけ強烈に覚えていることがある。とあるスタジオで、グループ面接があったのだが、参加者のひとりが自己PRの際にこんな発言をした。
「歌に対する想いは、誰にも負けません!」
10代後半〜20代前半の女性だったと思う。これといって印象的なPRの言葉ではないが、審査員の言葉は厳しかった。
「“誰にも負けません”って言ったけれど、他の人と比べてどのように違うの?ここにいる他の皆も同じように“誰にも負けない”って思ってると思うよ。あなたの、その歌に対する想いというのは、他の人とはどう違うの?」
彼女は困った表情を浮かべ、その質問には答えられず、黙り込んでしまった。審査員のその言葉は全く以て当然であるが、その質問に答えられたら大したものだ。音楽をやっている人は、皆「自分が一番」だと思っているし、そう思わないとステージでパフォーマンスなんて出来ない。

彼女はそこまで深く考えて言ったことではないことは明白だ。単純に「歌が大好き」というアピールをしたかっただけだろう。だけど、とても強く想っていることを言葉にするのは、本来は難しい。「好き」という表現では追いつかない。かつて山口百恵が引退コンサートのクライマックスで、「今“ありがとう”という言葉をどれだけ重ねても、私の気持ちには追い付かないと思います」と表現していたが、これは正に言い得て妙だ。逆に「この想いは誰にも負けない」という表現は、“誰にも負けないくらいの強い想い”つまり“強い情熱だ”という意味で使われるのだろうが、字面だけを追えば、傲慢にも取れて、件の審査員が突っかかったように、僕も嫌いな表現だ。もちろん、時と場合によって、そうでないこともあるのは承知。

同じように使われる表現に「人一倍」というのがある。例えば「○○に対する情熱は人一倍あります」「やる気は人一倍あります」など。時として、失礼で無知な言い方に取られてしまう可能性も充分に孕んでいる。例えば何かスポーツのグループやサークルに属している人が「競技に対する想いは誰にも負けません!やる気は人一倍あります!」と発言するのを聞いたら、僕はいい気がしない。“想い”も“やる気”も、きっと他の皆も同じように強く持っているし、まるで他の人には“情熱”も“やる気”もなく、その人ひとりだけがやる気を持って頑張っているかのように聞こえてしまうから。

でも実際はよく使われる言葉だろうと思う。そしてそこまで深く考えて発言もしていないと思うが、大概において、「そうか?」と思ってしまう。「いや、あなたよりあの人の方がよっぽど頑張ってると思うけど・・・」と、ついコメントしてあげたくなる。時にムッとすることもある。僕が「○○が好き」と言ったことに対し、その人も同じようにそれが好きだと言った後「あなたに負けないくらい、私はそれが好きですよ!」と言われると、その“負けないくらい”というのは何をもってして言っているのか、はたまた、別に競うことでもないけど・・・と思ってしまうのだ。

さて、僕は今苦戦している。4年間ライヴをサボっていた代償は大きかった。スタジオで練習していると、喉の調子が良くて「この声がまた出るようになったからもう問題ナシ!」とウキウキルンルンになったかと思えば、別の日には全く以て声が出ず「このままだと秋のライヴは厳しいかも・・・」と暗い気持ちになる。良い日と悪い日のムラが激しい。こんなムラは、僕が10年以上前にライヴ活動を始めた最初の頃以来だ。寝不足だと筋肉が緊張している為、声も出づらい。疲れている時も良くない。ああ、あの頃は寝不足だろうが疲れていようが、声は出たのに・・・。今は体調によって声が左右される。良い歌声を維持するには、規則正しい生活が不可欠なのだそうだ。このブランクがいけないのか、それとも、年齢的なものなのか、はたまた両方なのか。アップテンポの歌なんぞ、息が続かない有様である。20代の頃は軽々と歌っていたのに。うん、人一倍、誰にも負けないくらい練習しなくては!!
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英語教員、TOEIC“合格”2割 京都府中学「資質」はOK?』という新聞記事を読み、全く驚かないし、むしろそんなもんだろうなと思っていたが、小学校からの英語教育をやんやと騒ぐ前に、”京都府教育委員会が目標として課した英検準1級に相当する730点以上を獲得したのは約2割“という事実を国の問題にした方がいいと思う。そもそも僕は、この”国際化社会”に対応して、日本の小学校で英語の授業を取り入れたからといって、それが英語力アップに繋がるとは微塵たりとも思っていない。なぜなら、英語をまともに話せる英語教師が果たしてこの日本にどれだけいるのか?と思うから。それこそ2割にも満たないと思う。

僕は、自分自身が外国語大学でフランス語を専攻した際に、身をもって実感体感したことだが、最初からキチンとした正しい発音を耳に入れ、更には最初からその正しい発音を口に出して身に付けることが重要。日本の極々普通の学校における英語の授業では、コッテコテのカタカナ英語ばかりで発音しているから、結局ネイティブの発音とのギャップがありすぎて、実際に聞き取れないし通じないのである。僕の中学校時代の英語の授業を思い起こしても歴然としているが、日本人の気質からして、授業中に正しい英語の発音をすることは「恥ずかしい」ことであり、「気取った行為」になる為、誰も発音を意識しないし、教師も正しい発音を身に付けさせようだなんて思ってもいないし、そもそも教師自体が発音できないのだ。最初が肝心なのである。まともに英語が出来ない英語教師から英語を教わって、まともな英語が話せるようになることは奇跡であり、興味を持った人あるいは必要に迫られた人の大多数が、学校の英語教育以外のところで努力しなくてはならない。

というわけで、英語学習の低年齢化を叫ぶ前に、英語教師の育成をしっかりやらない限り、いくら小学校から授業に英語を導入したところで無意味なお話。そして現状、それは数字に出ているというわけだ。
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2週間前の金曜夜、11時過ぎにかかってきた母からの電話に、僕は身構えた。母の「もしもし」という第一声がいつもの明るいトーンであることを願いながら電話に出たが、気丈ながらも決して明るい声色ではなかった。
「月曜日におばあちゃんが入院して、1〜2週間で退院できると言うから、連絡はしなかったんだけど・・・」
この電話での会話における僕の記憶は、ここから曖昧だ。「今日突然容態が・・・」と言ったかどうかは定かではないが、次第に母は涙声になり、決定的な言葉を聞く前に、僕の頭の中は真っ白になった。「亡くなってしまった」という、僕が最も恐れていた言葉を耳にした途端、電話口の母は泣き、僕も何ひとつ言葉は出ずに泣いた。母に掛ける言葉も何も出てこなかった。明日には東京にいる2人の伯母も鶴岡に帰るから一緒に帰ってきたら、という母の提案に返答し電話を切った。すぐに伯母に電話をしたが話し中だった。掛け直すまで数分待っている間、僕は突然冷静になり、涙がスーッと引いた。今年96歳になり、いつも100歳まで生きると豪語し、誰よりも大きな声で喋らずにはいられない、あのスーパー元気な祖母と「死」が結びつかなかったからだ。伯母に電話したら「何かの間違いだったみたいよ。死んではいないみたい」と言われるのではないかと夢想した。やっと伯母と電話が繋がり、翌日の飛行機について話をし、一旦電話を切り、数分後に伯母が掛け直してきた時、これは「やっぱり間違いだった」という連絡なのではないかと期待し、飛行機の時間が決まり、母にメールをし、それに対して母から返信が来た時も、「おばあちゃん、まだ生きてた!」という連絡なのではないかといちいち思ってしまった。去年父方の祖母が亡くなった時もそうだったが、遠い山形で起きた信じ難い出来事を電話で知らされても現実感がなく、夢を見ているのではないかと思ってしまうのだ。

母の実家は車で5分の距離だったこともあり、子供の頃、母方の祖父母宅には日常的に顔を出し、そして世話になっていた。学校が終わると一人バスに乗り、週の半分は通っていた(お向かいの家で飼っていた犬の散歩も目当てだったが)。生まれた時からずっと、本当にありったけの愛情をもって可愛がられ、この祖母とは一番濃密な時間を過ごした。「大好きな」という形容詞では追いつかない程、僕はこの祖母を愛した。愛が強ければ強いほど、失うことが恐くなる。人間にとって最大の苦しみは死別だ。しかし仏教用語に「愛別離苦」という言葉があるように、人は愛する者との別れによる苦しみから逃れることは決して出来ない。ゆえに、僕がこの祖母をいつか失ってしまうこと、いわば「いつかは死んでしまう」という恐怖心を常にどこかに抱えていた。それはこの近年始まったことではないように思う。もしこの祖母が死んでしまったら、僕はそれに耐えられるのかという漠然とした不安。体調を崩して入院することはあったものの、頭はしっかりしているし、食欲もきちんとあり、声は誰よりも大きく、喋らずにはいられず、体操も欠かさず、そして90代になってからハマった読書(それも物凄いスピードで読みこなしていく)で、100歳は余裕で超えられるだろうと思っていた。自分の年齢を自慢する人だったから、100歳になったら更に笑いながら「100歳」という数字を皆に自慢する姿が想像できた。

祖母は自分の母親から受け継いだ魚の行商を最初は嫌々ながら始めたものの、良い檀家に恵まれたこともあり成功を収め(得意のセールストークもかなり功を奏しているはず)、結果的にそれは何よりの生きがいとなって生涯に亘り祖母を支えた。明治生まれの祖父は船乗りだった(12年前に94歳で死去)。この祖父にも可愛がられ、僕にはとても優しかった。僕が子供の頃に始めたピアノや、大人になってから始めた音楽活動に対して、祖父がどう思っていたのか直接聞いたことはなかったが、小学生の頃に「ピアノなんて」と祖父の少し否定的なニュアンスが含まれているような一言に対し、祖母は「あら、ピアノとかそういう音楽が出来るということは、勉強が出来ることよりもよっぽど凄いと思う」と言ったことを覚えている。事実、祖母はピアノの発表会の度に観に来て、客席で満面の笑みで僕を見ていたし、10年前に鶴岡でライブをやった時も着物を着て観に来てくれた。「これだけ楽団(バンド)の人も連れて来たら、それだけお金もかかるだろうに」と商売人らしい言葉を発したことを覚えている。

僕が最低でも年に3回も帰省していたのは、年老いた祖父母たちにあと何回会えるのだろう、会える時に会っておこうという思いがあったからだ。今年のゴールデンウィークに帰った時は、親戚に不幸があった為、祖母以外の皆が出かけてしまい、僕と祖母が2人で留守番をした。2人きりで過ごすのは久しぶりだった。子供の時分以来だったかも知れない。料理を手伝い、2人でご飯を食べた。その間中、ずっと大きな声で祖母は話をしていた。亡くなるこの年に、2人きりで過ごす時間を与えられたのは、今になって思えば偶然ではなかったと思う。

祖母と最後に会ったのは亡くなる2ヶ月前の9月30日。東京の友人を連れて2泊3日で、山形と鶴岡に旅行に出かけた。友人は普通の観光地だけでなく、きっと風情のある、何にもない(信号もない)集落を歩きながら写真を撮りたいだろうなと思い、祖母の家に車を停めて、その周辺を歩こうと計画していた。当日、祖母にそれを伝える為に家に寄ると、予告していなかった僕の突然の来訪に驚いた顔を見せた。「東京から友達が来ていて、この辺を歩きたいから、少し車を置かせてもらっていい?」と言うと、祖母は満面の笑みを浮かべて「じゃあ、後でその人も家に入ってもらって。96歳のおばあさんがいるって伝えて。コーヒー出すよ」と言う。話好きの祖母にとって、誰か話し相手が家に来てくれることは最高の喜びなのだが、あの時の祖母の笑顔が印象的なくらい嬉しそうで、これは絶対に友達に家に入ってもらわなきゃ!と思った。友人は二つ返事で快諾してくれた(ちなみに彼のおばあちゃんは98歳だそうだ)。30分程歩いて回った後、家に入ると、伯母がコーヒーとお菓子を出してくれた。祖母はとっても嬉しそうな笑顔を浮かべながら、「どうもこんにちは。功の孫ばあさんです」とペコリ頭を下げて挨拶をした。当然の如く、そこからは祖母の弾丸トーク。庄内弁丸出しなので、ところどころ僕が通訳しながら。大半は僕の子供の頃の話だったが、途中、祖母の長生きの秘訣となっている得意の体操の話になり、なんと寝っ転がって実演までして見せた。「この間誕生日を迎えて96歳になりました」と、得意の年齢自慢も交えながら。ちょうど昼近くで「ラーメンの出前取ろうか?」と祖母が提案してきたのだが、僕たちは既に別のラーメン屋に行くことを予定していたのでそれを断った。更に、あまり時間に余裕がなかったこともあり、僕は時計を気にしながら、結局15〜20分程で家を後にした(もっと長く居れば良かったと、後に僕自身が心底後悔することになることも知らずに)。ちょっと短すぎる滞在だったかなと思いつつも、僕はあんなに楽しそうな祖母を見られたことが嬉しくて、友人に礼を言った。本当に本当にとっても嬉しそうな笑顔を祖母は僕に見せてくれた。そう、それが最後となることなど、その場にいた誰も知らずに。僕の中の最後の祖母の姿は、あの、優しい、とってもとっても嬉しそうな笑顔なのだ。祖母の最後の姿として、僕はあの顔を一生忘れないだろう。

祖母の死を知らされ、翌日から鶴岡に帰ることになった。翌週に予定していた、前述の友人との約束をキャンセルする為に、僕はその夜メールを出していた。翌朝、羽田空港へと向かうバスの中で、友人からの返信を受け取った。お悔みの言葉と共に、「信じられない」「あの日お会いできて本当に良かった」「忘れられない思い出になった」という旨の言葉が綴られていた。そのメールに対して更に返信を打とうとすると、あの時の祖母の嬉しそうな笑顔が思い出され、泣けて泣けて仕方がなかった。祖母が僕に見せた最後の笑顔・・・。人目もはばからず、僕はバスの中で鼻をすすりながら泣いた。

葬儀では弔辞を読んだ。亡くなってからすべての儀式が終わる日まで、何かと「これが最後の・・・」と枕詞が付く儀式が何度かあるが、僕にとって弔辞が最後の最後の別れの儀式になった(鶴岡では通夜前に火葬する)。弔辞を読むのはこれで3回目だが、「弔辞」と言葉を発した後、次の言葉(おばあちゃんと呼びかける)をなかなか言い出せない。言葉を紡げば紡ぐ程に、最後の別れの刻が近づいてくる。毎回原稿を書き終えると「長いかな」と思いつつ、読み始めるとあっという間だ。先の文章を目で追いながら、「あと少しで終わってしまう・・・」とどうしようもない気持ちに駆られる。最後の言葉「さようなら」と言えば、もう本当にお別れなんだな、と思うからだ。祭壇に飾られた祖母の遺影を見る度に僕は思った。なぜこんなところに祖母の写真が飾られているんだろう、「死」とか「葬式」などとは最もかけ離れた人なのに・・・と。

親戚が一堂に会し皆で一緒にいた時は良かったが、東京に戻る為の飛行機に一人で乗った瞬間、ドッと心の中に重みが宿った。祖母は亡くなったんだ、という現実が腹に落ちたような気がした。幸か不幸か、翌週は忙しい仕事が待ち受けていた。悲しみに浸っている暇はないのだった。だけど、僕は祖母に無性に会いたかった。休みを取って飛行機に乗れば、祖母に会えるのではないかと思ってしまう。肉親が亡くなると、心の中に宿るからより近く感じるようになった、とよく聞くが、僕は祖母のことをまだ近くには感じない。祖母は今でも遠く鶴岡の家に居て、僕の帰りを待っている。

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Yahoo!ニュースのコメント欄には、その記事に対する感想が書き込まれる。人の不幸は蜜の味、弱いものいじめの恰好のネタとなると、匿名なのをいいことに、悪意丸出しのコメントが並ぶことも多い。そこで結構な頻度で目にするのが「興味ない」「どうでもいい」というコメント。見出しをクリックし、記事を最後まで読み、更にはコメントまで付けている時点で、「興味ない」も「どうでもいい」もない。興味があって、どうでもよくないからコメントしたくなっているのではないのか?「愛」の反対語は「嫌悪」ではなく「無関心」である、とはマザー・テレサの言葉だが、限りある貴重な時間と労力を使って、記事を全文読んでコメントまで残すとはご苦労なことだ。無関心なら心を乱されることもない。

最近はベッキーがひっきりなしに芸能ニュースを賑わしているが、今回のスキャンダルが起こるずっと前から、あの異常なまでのストイックな優等生的ポジティブさが嘘っぽく感じるというか、人間っぽくないというか、いつかどこかで破綻しそうで、僕はベッキーに対していいイメージを持っていなかった。スキャンダル発覚後の一方的な記者会見での言葉は、誰が見たって嘘だったし、その後に流出したLINEによってやっと本来の人間っぽさが露呈した。CMスポンサーを始め、多くのものを失うことを避けようとした嘘が、結果的にはマイナスに転んで多くを失ってしまった。かつて、不倫が発覚したと同時に薬物の疑いまでかけられた女優が全てを認めた時(薬物疑惑は晴れていたが)、その潔さが一部から称賛されたことがあったと思うが、多大なる損失を覚悟して過ちを認める勇気によって、その先の行く末が異なるものだと思った。僕はベッキーのファンでも何でもないので、復帰しようが引退しようが、それこそ「どうでもいい」ことなのだが、無関心には至らず、記事を追ってしまうし、この間の「金スマ」も観た。全く関心のないAKBやジャニーズ関連の記事などはクリックさえしないし、いちいちイチャモンを付ける為に番組を観るでもないことを考えると、結果的に、ベッキー問題は僕にとって「どうでもいい」ことではない関心事のようだ。

ベッキーは犯罪を犯したわけでもないし、世間一般に対して悪いことをしたわけでもないから、あそこまで糾弾されるのは気の毒だし、騒ぎ過ぎ。確かにやってもいいことをやったわけではないが、ふと冷静になれば、その辺に転がっているような話である。イメージとのギャップもあるし、嘘をついたこと、更には記者会見前夜に相手と開き直ったような会話をしていたことが、更なる反感を買ってしまったわけだが、もし最初の記者会見で素直に認め、更には不倫発覚の記事を逆手に取ろうとした内容のLINEが流出さえしなければ、あるいは、それさえも早く素直に認めて謝罪をしていれば、もっと別の道が待っていたのかも知れない。

今後、以前のような活躍が出来るかどうかは別として、ようやくベッキーはがんじがらめの「優等生」から抜け出した。この間の「金スマ」では、“CM11本も抱える超売れっ子の一流タレント”ではなく、世間一般の人と何ら変わらない普通の心を持つひとりの人間としての素が出ていた。恋愛感情に溺れて周りが見えなかった、いけないとは思いつつ止められなかった、相手の実家に行くことを断ることで嫌われてしまうことが恐かった、記者会見で嘘をついたのはまだ希望があったから・・・・・・誰にだって過ちや間違いはあって、今回の騒動の発端も世間様のそこら中に転がっているようなことだけど、有名人というだけで日本中から非難されて多くのものを失ってしまった。だけど、その根底にあったものは、突飛なことでもなく、普通の人間的なものだった。

ベッキーに対して世間は「もう見たくない」という言葉を投げているが、僕は、失敗や挫折から這い上がるところを見たい。よく、著名人や話題になっている人が、そのサクセスストーリーをインタビューや自著で語ったりするが、成功するまでの道程ばかり熱く語り、成功した後の失敗や苦労、挫折をごっそり抜かされると、はっきり言って何も面白くない。確かに、成功を手に入れるまでの努力や試行錯誤の話も興味深いが、一番大変なのは、手にした成功をいかにして持続することではないだろうか。いい時もあれば悪い時もあるのが当然で、成功を維持する途上には、成功に辿り着くまでの苦労よりも大きな苦労があり、そこには挫折も失敗もあるはず。そこをいかにして乗り越え這い上がったのか、その部分をごっそり抜かして語るインタビューや本にはガッカリさせられる。芸能人にはつきものの、人気が下火になった時や、下降線を辿った時、いかにして乗り越えて今があるのか、という話をしてくれる人はそんなに多くはない。プライドの問題だろうか?だけど、その部分こそ知りたいのだ。そこから勇気や希望を世間の人たちに与えられるはず。著名人に限らず、維持すること、持続することは本当に大変なのだから。

ゆえにベッキーは、デビュー以来初めての挫折を味わい、その渦中にいる今、本当なら言いたくないことまで自分の言葉で本音を語り、そして乗り越えようとしている姿を、本当なら見られたくない姿をさらけ出したことで、そこから何かを感じた人もいるはずだ。

これが最近の、僕にとって「どうでもよくない」どうでもいいニュースである。
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僕は生まれてこのかた、名字よりも下の名前で呼ばれることの方が多い環境にいた。今現在にしても、職場、ジム、ちょっと前まで通っていた英語学校など、日常的に下の名前で呼ばれる。名字で呼ばれるのは、店や公的施設くらい。関東では学校で級友を名字で呼び合うことが珍しくないようだが、僕の田舎では小学校も中学校も高校も全員が下の名前で呼ぶのが普通だったし(先輩後輩限らず)、大学でもやはり下の名前で呼ばれた。名字で呼ばれるようになったのは社会人になってからで、当時はそんなものかと思っていたので違和感もなかったが、ふと気が付くと、今再び名字で呼ばれる環境から遠ざかった為、最近は誰かに「高橋さん」と呼ばれると、あまりピンとこない。日本で3番目に多いポピュラーな名字ということもあるだろうけど。

殊更日本語では、名前の呼び方によって、相手とのおおよその関係性や親密度が測れてしまうので、ある意味、呼び方は重要かも知れない。そして、一度名字で呼び始めると、その後親しくなっても下の名前に切り替えるのが困難だったり、呼び方を改めるのは難しい局面もあるので、なかなか日本語の世界は手強い。だからなのか、僕は人にニックネームを付ける癖がある。

それなりに親しくしているのに、なぜか僕のことを名前で呼ばない友人もいるし(呼び方を固定するチャンスを逸してしまったのだろう)、出会った頃の環境ゆえにかなり親しくなっても「高橋さん」「高橋君」のまま、という人もいる。まぁ、呼び方についてはお好きにどうぞ、という話であるが、僕が一番嫌いなのは「すいません」という呼び方。もちろん見ず知らずの人は例外。仕事やら何やらで関わりのある人の場合、名前を呼ばない、あるいは名前を覚えようとせず「すいません」でお茶を濁そうとするのは大人としてどうかと思ってしまう。何度かそれが続くと、僕を呼んでいるんだろうなとは思いつつ、気づかないフリをしてしまうこともある。どっちが大人気ないんだろう?

そこで思い出すのが、高校時代、アメリカに1年間留学した際のこと。最初のホストファミリーとは上手く行かず1ヶ月ちょっとでホストチェンジしているのだが、意地悪なホストマザーが僕のことを一切名前で呼ばず「Excuse me(すみません)」と呼んでいた。日本語よりも遥かにファーストネームを呼んだり、言葉の前後に名前を入れること(Hi, Ko!とかThank you, Ko!など)の多い英語の世界で、これはあからさまなイジメである。

僕はそのホストファミリー宅に到着したその日、ホストファーザーとホストマザーに何と呼べばいいか確認をした。DadやMomと呼んでほしい人もいれば、ファーストネームで呼んでほしい人もいるから、初日に確認すべし、と留学前のオリエンテーションで教育を受けていたからだ。彼らの回答は「ファーストネームで」とのことだった。ところが10日程経った頃、「ミスター・ハナー」「ミセス・ハナー」と敬称付の名字で呼ぶように言われた。それまでに短期を含め何度かホームステイを経験済みだった僕は、これにはかなり面食らった。ホストファミリーという形式上でのファミリーとはいえ、家族として接する人に対し、敬称付の名字で改まった呼び方をすることには抵抗感しかなかった。日本語で言うなれば、自分の家族や親戚を「高橋様」と呼ぶような不自然さがある。その時、僕から「なぜファーストネームではなく、家族に対してそんな改まった呼び方をしなければいけないのか?」と確認すれば良かったのかも知れない。僕はホストファミリーを敬称付で呼ぶことにためらい、そして彼らは彼らで僕の名前を呼ばなかった。お互いが「Excuse me」と呼び合った。鶏が先か卵が先か、という問題になってしまうが、僕は僕で「ホストファミリーがそう呼ぶならこっちもExcuse meと呼ぶ」と意固地になった。

留学先における僕の担当者が間に入って話し合いが行われる数日前、僕とホストマザーは些細なことで口論になった(アメリカ留学記・第13話「喧嘩」に詳細あり)。ホストマザーが名前を呼ばないものだから、誰に対して発した言葉なのかが分からなかったことも起因しての行き違いだったこともあり、僕は感情的になり、「あなたはいつも僕の名前を呼ばない!(だから分からなかった!)」と声を荒げた。すると驚いたことにホストマザーは「私はあなたを“コウ”と呼んでるわ!」と言い放った。
「呼んでない!」と、僕。
「じゃああなたは私のことなんて呼んでる?いつも“Excuse me(すみません)”って呼んでるじゃないの!」
「You, too!!!(あなたこそ!)」
何か事が起きて喧嘩になった時、感情に任せて流れ出る言葉は、日常的に不満に思っていることなのだとその時思った。

僕が日本語圏外において名前の呼び方で腑に落ちなかったのはこの1件きりだったが、事程左様に、名前の呼び方というのは重要なのである。
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桂銀淑。ファンでいることがこんなにも心底辛いと感じたことはない。芸能人とファンの関係とは本当に不思議だ。家族でも親戚でも友達でもないのに、ずっしりと暗い気持ちになって、絶望感と心配な思いで一杯だ。

今月24日、逮捕状請求の報道を見て愕然とした。でもまだ「容疑者」にはなっていなかった。何かの間違いであってほしかった。しかし翌日には覚せい剤使用で2度目の逮捕。容疑者になっていた。名前の後に容疑者と付いているのを見るのはそこはかとなく辛いし切ない。あんなにも覚せい剤使用を後悔していた人が、再び手を出すなんて夢にも思っていなかったし、それだけは止めてほしかった。2008年時の逮捕で日本にいられなくなり韓国に強制送還された後、何年かかっても日本に行くことを諦めないと言っていた。個人的には、日本への再入国許可が下りるまで10年以上はかかるのではないかと思っていたけれど、いつかまた来日出来る日が来ると信じていたかった。

十数年来トラブル続きで、いよいよこれからという時に必ず事件が起こった。去年も、韓国で歌手活動を再開し、日本と韓国で新しいCDを発売することも決まっていたにも関わらず、飛び込んできたニュースは「詐欺容疑で在宅起訴」。何かがおかしいと思ったが、想像通り、結局桂銀淑は名前を利用され、周囲に嵌められた格好となっていた。しかしこの事件がきっかけで、復帰計画はパー。今回の逮捕前も実際はレコーディングを終えて今後3年のスケジュールが出たところだったとか。それまで散々周囲に裏切られたり嵌められたりしてどん底を味わって、大変な思いをしてきたわけだが、覚せい剤だけは例え悪い人によってもたらされたものであっても、購入や使用は最終的には本人の意志によるものだ。これひとつで人生が狂うことを知っているのだから、これだけは本当に止めてほしかった。

1996年に(芸能界大手の)第一プロダクションから独立していなければ・・・ などと頭をよぎってしまう。実際には1999年の離婚後から数々のトラブルに見舞われているのだが、それでもどんなトラブルがあったにせよ、当時はきちんと復帰のレールはあったし、歌う場もきちんとあった。テレビの歌番組もコンサートもディナーショーも、確実にあった。覚せい剤さえやらなければ、どんなに辛いことがあったにせよ、日本で歌い続けられたのに・・・ と思わずにいられない。一度目の逮捕から時間が経ち、韓国での復帰も実現して、少しずつ日本への再入国も近づいているのではないかと思ったいただけに、二度目の逮捕はショックだ。

そして何よりも心配なのは今後の桂銀淑。もう歌手復帰や日本再入国より何よりも、きちんと健康で生きていてほしい。本当にそれだけだ。認知症を患い90歳を超えているお母様や、飼っている犬たちはどうなるのか。そして今後、身寄りのない桂銀淑はきちんと更生してひとりで生きていけるのか。日本で逮捕されたあの当時、マンションから飛び降りようかと思ったくらい「死にたい」と思いに駆られていたと回顧したのは去年のこと。とにかく心も体も健康でいてほしい。

この数年、韓国のサイトで桂銀淑の情報を検索するのが日課になっているが、悪いニュースはもう金輪際ごめんだ。とにかく情報が欲しい。こんな時ネットは便利だ。外国語でも翻訳サイトでとりあえず内容は理解できる。ネットでの書き込みやワイドショーでのコメントには「もったいない」という言葉が飛び交っている。稀有な歌声、表現力、歌唱力が、才能が・・・。かつてコンサートで、「外国人である私を受け入れてくれた日本には恩がある。その恩返しをしていきたい」と涙ながらに語っていた桂銀淑!立ち直って!戻ってきて!!

桂銀淑容疑者を覚醒剤使用容疑で逮捕(日テレNEWS24)
歌手桂銀淑側「麻薬容疑認める…心理的にとても苦しかった」(中央日報)
桂銀淑(Wikipedia)

突き抜けてくる歌〜桂銀淑コンサート〜(当ブログ記事)
ずっと待っていた!(当ブログ記事)
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とてつもなく面白いネタで友達と笑いが止まらなくなる、という夢を見ていた。ハッと目が覚めた時には、起床予定時刻を既に越していたわけだが、こういう時に限って「いい夢」を見、そしてその面白いネタは何だったのか、さっぱり思い出せないというジレンマを味わう。

話はコロリと変わる。

「どんな音楽が好きですか?」はたまた「どんなジャンルの音楽を聴きますか?」という質問に対して、「なんでも聴きます!」と満面の笑みで答える人がたまにいる。僕がもっともイラッとしてしまう返答だ。すかさず、
「じゃあ、民謡も聴く?」
と訊くと、ほぼ100%「民謡は聴かない」という答えが返って来る。突っ込もうと思えばいくらでも突っ込めるが、面倒くさいのでその辺でストップする。「民謡」の代わりに、「フレンチポップス」「カンツォーネ」「演歌」「クラシック」などに置き換えても、返答は同様なのだ。彼らの言う「なんでも」は、実際のところ「あらゆるジャンルの音楽」ではなく「1種類以上のジャンルの音楽を聴く」を意味しているに過ぎない。しかしこれは誰にでも当てはまるものだ。ポップスも聴けばロックも聴く。はたまたヘヴィメタも、たまにはクラシックも。「絶対にシャンソンしか聴きません!」という人はそんなにいない。

本当に「なんでも聴く」人はいる。実際に出会ったことはあるが、そういう人は大抵プロだ。仕事に絡めて聴くことも含まれている。素人で本当に何でも聴く人には一度もお目にかかったことがない。そして「なんでも聴く」と答える人ほど、ジャンルの許容範囲の幅は思うほど広くない。「これといったジャンルにこだわることなく、何でも聴きますよ」とアピールしているように聞こえるが、音楽の話が広がったこともない。なぜなら、僕の音楽の許容範囲もさほど広くないからだ。実際、「なんでも聴く」という答え自体、後に続く会話を遮っている。食事に連れて行くから何が食べたい?と訊かれて「なんでもいい」と答えるのと同じ。「なんでも」と言うからには、こちらのどんな話題にでも食らいついて貰わないと困る。食らい付けないのなら、会話が続くような返答をしてほしいものだ。

だから僕は、本来はポップスもロックも演歌も歌謡曲もクラシックもフレンチもシャンソンもフォークも、その他もろもろ好きなジャンルはあるけれど、実際のところは心に響くストライクゾーンは結構狭いし、話が出来るジャンルといえば70年代から90年代のポップスや歌謡曲くらいなので、普段どういう音楽を聴いてるか訊かれたら、
「暗い曲。特に80年代の歌謡曲が一番好き」
と答える。その方が、相手もイメージしやすいし、会話も広がりやすいと思うからだ。

それと、あくまで会話の流れで年齢を訊ねた際、「何歳に見える?」という質問返しも僕の心を冷やす。実年齢よりも若く見られることに自信を抱いているのかも知れないが、これほどどうでもよく面倒くさい質問はない。内心「知らねーよ」が渦巻くが、適当に年齢を言い当てないといけない。それが違っていると「惜しい!」「うーん、ちょっと離れた」と、こちらが当てるまで延々と年齢当て大会が続くのはもっと腹立たしい。楽しいのは本人だけだ。だから僕は、例えば30歳くらいかなと思ったら、わざと10歳プラスして「40歳くらい?」と訊く。5歳プラスだと現実味があって失礼になる可能性もあるし、あえて若く言うのも気が引けるので、プラス10歳だと程良く笑ってくれる。会話の流れで訊いているわけで、心底年齢を知りたいわけじゃないのだから、適当なところで切り上げてほしいものだ。男女問わずね。
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