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数ヶ月前友達が、キッコーマンと読売新聞主催の「第5回おいしい記憶エッセイコンテスト」を教えてくれて、共に応募した。友達の作品も傑作で、2人して受賞を企んでいたのだが、結果はあえなく落選していた・・・。ムーーー。(受賞作品はこちら

でも、せっかく書いたので落選作をこちらで披露します!


苦しみの鉄板焼き

異国でまず最初に恋しくなるのは、家族の顔や母語の前に、母国の味だろう。ほかほかの白いご飯、熱い味噌汁、香ばしい沢庵、焼き魚。これと言って何の変哲もない極々普通の食べ物が食べたくなるのが常だ。

1994年夏、高校2年の私は交換留学生として米国ジョージア州に1年間留学する為に、生まれ故郷の山形を後にし、渡米前の手続きの都合で東京の伯母の家に2泊した。渡航前夜、従兄も加えて伯母宅で3人で壮行会を行った。気風のいい伯母である。暫く日本を不在にする私の為に、料理上手な伯母が供してくれた“最後の晩餐”は手の込んだ日本料理の数々、ではなく、シンプルな鉄板焼きだった。不満だったわけではない。新鮮な肉と野菜が次々と目の前で焼かれ、醤油と柚子胡椒をかけた大根おろしと共に食したその鉄板焼きが、渡米後の私を苦しめる原因となった。

豊富な食材と最高の栄養バランスを誇る日本食を知る食欲旺盛な16歳にとって、かの地の食生活は言わずもがな残酷だった。来る日も来る日もハンバーガーにピザ、そして冷凍食品。ホームステイ先では、よく耳にするボリューム満点な食生活ではなく、元々痩せ型の私は1年も滞在していたのについぞ太ることはなかった。決してケチなホストファミリーだったのではなく、様々なレストランにも連れて行かれたが、質も量も物足りず、私は常に食欲と闘っていた。ふと頭に浮かぶのは、出発前夜に伯母の家で食べたシンプルな鉄板焼きだった。一度思い出すと止まらなくなり、あの味が恋しくて恋しくて、私は何度ものたうち回った。

アトランタ郊外には日本食レストランが多く存在し、日本食を食べる機会はよくあった。特に人気があったのはジャパニーズ・ステーキハウス。職人が目の前で焼いてくれる、いわば鉄板焼きだ。私の頭を日々狂わせているそれが、ここアメリカで人気があるとは幸運とばかりに、外食先としてよく利用していたが、その度に、アメリカ人向けにアレンジされた味付けが、逆に伯母のシンプルな鉄板焼きを強烈に思い起こさせ、更に私を苦しめるのだった。

帰国したらとにかく伯母の鉄板焼きを食べたい。今それを食すことは絶対に不可能なのだと思えば思う程、食べたくなる。どんな高級ステーキを食べようが、どんなに手の込んだ地元料理を食べようが、更にはアトランタ市内で純日本風の和食を食べようが、あの鉄板焼きには何も適わなかった。何度妄想の中で伯母の鉄板焼きを味わったか知れない。

かくして鉄板焼きに彩られた1年を終え再会した伯母に「1年ぶりの日本食、何が食べたい?」と訊かれ「鉄板焼き」と答えた時には腰を抜かしていたが、想い続けた味との再会には涙に暮れた。しかしあの渡米前夜の鉄板焼きにはいまだに苦しめられている。あれ以上の味に出合えないのだ。
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大学時代は愉快な友人たちのみならず、とてつもなくユニークな先生たちに囲まれて過ごした。暇さえあれば、先生とお喋りをすべく、教授の部屋(研究室)に行っては談話を楽しんでいた。放課後だけでなく、授業の合間の空き時間に、ひとりで、もしくは友人たちと研究室に赴く。目当ての先生が不在の場合でも、大抵は誰かしらの研究室に明かりがついているので、意気揚々と専攻語(フランス語)の先生の研究室をノックした。特別な用はない。それでも、「何の用?」と訊かれることはなく、「いらっしゃい、いらっしゃい」の如く、快く部屋に招き入れてくれて、談話に講じる。他の皆が「怖い」と言っている教授のことも、僕は胸をしめつけられる程の面白さを感じていたので、何の抵抗もなく冗談話が出来た。食事に行ったり飲みに行ったりすることもあったし、ご自宅に招かれたこともあった。

フランス語学科の先生のみならず、専攻以外の授業で「面白い先生!」と思えば、僕たちは研究室に赴き冗談話等で盛り上がり、「飲みに(食事に)行きませんか〜?」と誘う。大好きな教授陣とのひとときには、格別なものがあった。

フランスに1年間、タダで留学するチャンスを得られたのも、僕の大好きな美人の英語の先生との会話がきっかけだった。ロータリー財団の試験を受けるべき、という強い薦めに従い、その先生のアドバイスと、フランス語学科の教授陣の多大なるサポートがあり(更には僕とは何の関係もなかった中国語学科の教授まで登場した)、半年以上にも渡る難関の試験をパスし、至れり尽くせりのロータリー奨学生として渡仏が出来たのだ。

大学に入学して一番最初の授業の時、教授は高校卒業したての僕たちに釘を刺した。
「晴れて大学生になって、これから存分に遊ぶぞ〜!と思っているならば、進級は難しいです。テストも沢山あるし、他の大学のように簡単に単位が取れるようなカリキュラムではありません」
実際、我々の時間割表は毎日必修科目でぎっしり埋まり、土曜日にまで必修科目が入っていた。小テストは頻繁にあり、真剣に勉強をしなければついていけないが、僕はビビるどころかワクワクし、それが語学習得には最高の環境だと思った。授業は全て興味深かったので、苦ではなかったのだ。留学をしなくても、あの環境を最大限に活用すれば、相当な語学力が身に付くはずだ。

ガイコクゴが出来れば就職には困らない、どこにだって就職出来るでしょう!とよく言われるが、それは全く以て誤解である。専攻分野を活かした職に就く人はほんのわずか、極々一部というのは、どの専攻(学問)でも同じことで、外国語に至っても御多分に漏れず。専攻語を活かして職を得た人はそんなにいない。でも、それも不思議ではなかった。僕たちのような語学系の人たちは高校時代から、そして大学に入れば尚更先生たちに口を酸っぱくして言われるのだ。
「語学だけが出来ても就職先はない。言葉は手段であり、目的ではない。だから語学を活かしたいのなら、それにプラスαがないとダメ」
まぁ、僕はそもそも語学を活かした職に就こうとは全く以て思っていなかったので、自分には関係のないことだと思っていたけれど、それでも耳にタコが出来るほど聞かされた言葉であり、実際真実である。「語学=職に困らない」という間違った認識を、いまだに耳にするのが心苦しい。

教授陣との会話の中で、先生の専門分野について聞いている時も最高に楽しい時間のひとつだった。先生が大学で専攻した好きな分野の学問を、活かすも活かさないもなく、そのままその研究に一生を捧げている姿が煌めいて見えた。そしてそれを語る時は生き生きとしていた。先生が学生時代から抱いてきた、学問に対する関心を聞くのが好きだった。そしてそれは、どれもこれもユニークだった。先生の学生時代や留学時代の話を、僕は目を輝かせて聞いていたと思う。好きなことを職業にするのは簡単ではないけれど、でも、今目の前にいる人は正にそれを現実のものにした人なのだ!僕たちの話を聞くのも上手くて、話も上手。話は尽きない。“学生と教授”なのになぜか友達みたいな感覚もあったし、“ひとりの人間対人間”として接してくれているような嬉しさもあった。

大学教授は研究職であるから、教えることに至っては本分ではないと、誰かが言っていたが、僕が当時出会った先生たちは最高だった。僕はいまだに、先生たちの言葉をよく思い出す。とある先生は、
「授業も一種のエンターテインメント」
と言った。1時間半という長い時間をいかに集中して聞かせるか。余談があったり、冗談があったりもする。そうだ、何もコンサートホールやテレビの中だけがエンターテインメントではない。極々身近なところにもエンターテインメントは存在するのだ。

卒業式の日、担任の教授がクラスの学生たちに「京都のどんなところに影響を受けたか」と訊いた。僕の番になった時、僕が言葉を発するよりも前に、先生がおもむろに話し出した。
「君の場合は、君が“影響を受けた”というよりも、周りの人たちにいろんな影響を“与えた”んじゃないかなぁ?」
そう・・・4年間、関西弁を真似ることもなく、皆のリクエストに応えて庄内弁を貫いていたのだ。

僕は今、音楽をする身として、あの時の言葉が胸にずっしり響いている。

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妖怪人間になりたかったこともさることながら、子供の頃は「パーマン」にもなりたかった。

ある日、父が「パーマン・セット」を買って来てくれた。多分、あれはどこかに出張に行った時のお土産だったのだろう。僕は物凄く嬉しかった。興奮した。あの憧れのパーマンになれるのである!ヘルメットやマント、そしてバッチ。これら全てを身に付ければ、僕もパーマンになって空を飛べると本気で思っていた。はやる気持ちを押さえながら、母に手伝ってもらってマントを着る。ヘルメットをかぶる。バッチもつける。そして加速をつけて廊下を走って、いざ!!憧れの空中浮遊!!!

・・・ところが、宙には浮かなかった。空など飛べもしなかった。不思議でならなかった。何故、マントを付けてパーマンと同じ格好をしてるのに、空を飛べないんだろう・・・。どんなに加速をつけて、いくら力強くジャンプしてもすぐに着地してしまう。両親は「飛べるわけないじゃない」と笑っていたが、心底不思議だった。悲しかった。裏切られたような気分だった。

アニメの世界は、所詮「非現実」の世界であるということを、僕はあの「パーマン・セット」によって初めて気づかされた。マントさえ付ければ空を飛べると、何の疑いもなく思っていた子供時代。「妖怪人間」になってベム・ベラ・ベロの仲間入りが出来ると思っていた子供時代。アニメの中に出てくる魅惑的な道具が欲しくて両親にねだるその度に、「そんなのは売ってない」と言われるのだが、パーマンになれなかったその現実が何よりも衝撃的だった。

しかしそれよりも衝撃的なエピソードがあった。

大学時代の友人も同じように、子供の頃にパーマン・セットを買って貰ったのだそうだ。そして僕と同じように、それを身につければ空を飛べると思い込んでいた。かたくなに信じていた友人は、パーマンのマントを身に付け、高台に上った。そして、3メートルもある高さから、なんと実際に飛び降りたのだそうだ!!血だらけになって帰宅した我が子を見たご両親は、「まさか、本当に飛ぶとは思っていなかった」とあわてふためいたのだとか。

どこにでも、上には上がいるものだ。

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アニメ『妖怪人間ベム』が、夕方から再放送している(今月から日テレで実写版のドラマが始まるので宣伝の一環らしい)。子供向けのアニメだし、もうこのトシになって観ても面白くないだろうなと思いつつ、懐かしいから観てみたら、これがこれが!ハマってしまった。面白いのなんのって!!この再放送も今月中旬には終わってしまうので寂しい限り。このアニメ!僕が幼稚園の頃にも夕方再放送しており、1歳下のいとこと共に4時になったらチャンネルを合わせ、夢中になって観ていた。

何を隠そう、僕はこのアニメを見て、妖怪人間に憧れまくった!!ベム・ベラ・ベロは早く人間になりたがっていたのに、なぜか僕は妖怪人間になりたかった。多分、憧れた最大要因は、瞬間移動の技かも知れない。自分も突然消えて突然現れる、その瞬間移動が出来るようになりたい、と心底思っていた。ベムが持つ万能のステッキやベラのムチも欲しかった。いとこと、妖怪人間ごっこをしてよく遊んでいた記憶もある。3本指を真似て、どうやったら、ベロの手に近づけるのか競い合った。

そんなにも憧れて、愛してやまなかった『妖怪人間ベム』・・・なのにも関わらず、(恥を忍んで大告白するが)ひとりでは恐くて観られなかった。

ある日、幼稚園が終われば家に遊びに来ていたいとこが、なかなかやって来なかった。4時の放送まであと少しだというのに来ないので、僕はソワソワしていた。そして4時が過ぎてもやって来ず、僕はテレビを観たいのに、恐怖でスイッチを押せずにいたのだ。4時5分が過ぎた頃、やっといとこがやって来た。
「『妖怪人間』始まってるよ!なんで観てないの?早く観ようよ!」
と、いとこに言われて、何食わぬ顔でテレビをつける僕。
「もしかして・・・ひとりで観るのが恐くて、テレビをつけていなかった・・・とか?」
ドキッッ!
「えっ・・・違うよ。そんなことない」
ホントは図星だが、1歳下のいとこに“どっこぎ”(恐がり)と思われるのも癪なので見栄を張る。
「ホント〜?!ひとりでも観られるの?」
「当たり前!」
そんな会話を思い出しながら、今、妖怪人間と共に幸せな夕方を迎える。やっぱり、三つ子の魂百までなんですねぇ。見栄っ張り。及び、「やっぱり今も、夜中ひとりじゃ観られないかも」と心のどこかで思っている自分がいる。

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今回の京都で再会した大学の友人(実際は1つ上の先輩)とは、いつも、思い出話をすると噛み合わない。覚えていることがそれぞれ異なるのだ。だから、繋ぎ合わせると思い出が2倍になるというわけだが!

その友人(先輩)、大学時代に僕が発した、とある言葉を思い出してはいつも励まされているという。実際は僕の言葉ではなく、他の友人Tから僕が言われた言葉。当時、フランス留学を目前にして、何やらクサっていた僕に対しTが「やるべきことは沢山あるんだから、目の前にあることをひとつずつやっていけばいいんじゃない?」と言い、僕は励まされた、ということを、後に、僕がその友人(先輩)に報告したらしい。全然覚えていない。でも、友人(先輩)はそれを覚えていて、今でも思い出しては励まされているという。なんてヤツだ、T!

それにしても、本当に恵まれた学生生活だったと思う。クラスメイトたちは、皆頭が良くて、フランス語を学ぶ意欲に満ちていて、積極的だったし、授業も毎日すこぶる厳しく、でも学生のやる気が活気ある雰囲気を作り出していたし、先生方もそれに応えてくれていた。当時は語学教育に定評があったので、それに恥じないように、厳しい授業が繰り広げられていた。それにより、クラスメイトたちは皆、数ヶ月経つとそこそこフランス語が話せるようになっていた。夏休みが終わり、後期が始まると、フランス人の先生による「フランス語会話」の授業では、先生は日本語を一切使わず、フランス語だけになった。だから、フランス人の先生と授業以外で話す時も、いつもフランス語だった。日本語を話してはいけない、とは全く忠告されていなかったが、フランス語を話すべきという暗黙の了解があった。

皆、やりたいことがあって、それをするにはどうしたらいいのか、他力本願にならずに自分で考えて、それをもってして先生方にアドバイスを請う。周囲は刺激的な人たちばかりだった。休み時間には、よく教授陣の研究室に遊びに行ったものだ。これといった用事もないのに。雑談をするために!

語学は小さなことの積み重ねが重要なので、小テストは頻繁に行われ、厳しかったし、勉強しないとついていけなかったが、ゆえに語学力がすぐに身に付いたことや、勉強と遊びのメリハリ、教授陣への信頼が出来て、何ものにも代えがたい時を過ごした。

成せば成るということを、正に体全体で実感していた頃だ。

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大学時代の専攻がフランス語で、フランスに1年間留学していたと言うと、フランスに旅行したことのある人に必ず言われる言葉。
「フランスは本当に英語が通じないよね!フランス人は(英語を話せても)フランス語しか話さない」
僕はこれを日本人の固定観念だと思っていたし、今でもそう信じて疑わない。実際、“英語を話せるのに話さない”のではなく、“英語を話せない”フランス人は沢山いる。でも、観光地ではない田舎に行くと通じないことも多いが、世界中から観光客が集まるパリでは英語がよく通じる。事実、パリに行くと、英語で話しかけられることがほとんどだ。留学していた頃は、どこに行っても英語だけを押し通す(押し通せる)英語圏(特に米)の人の態度に抵抗を感じていたし、フランス語を学びに来ている自分がフランス語圏で英語を話すことには何よりも抵抗を感じていたので、逆に僕の方が、英語で話しかけられるとムキッ!となっていた。

だから、パリに行って英語が通じなかったと聞くと、今でも心底信じられない。でも、実際にそう言う人が沢山いるのだから、それも事実なのだろう。

確かに隣国のスイスやドイツ、はたまた北欧諸国などと比べれば、フランスは英語が通じにくい。しかし!スペインやイタリアの方が、もっと英語は通じない。全然通じないと言っても過言ではないくらいだ。それなのになぜフランスだけ槍玉に挙げられる?ツンとしたスノッブなイメージからか?

そしてもっと言えば!日本の方がよっぽど英語は通じない。日本に比べたら、フランスなんて何倍も英語が通じる。まぁ、僕はフランス人よりも非・英語帝国主義(英語至上主義)“気味”なので、非英語圏で英語が通じにくくても、なんら問題はないと思っているのだけれど(“気味”と書いたのは、非英語圏においては結局僕も英語の世話になっていて、何度もそれで助けられているから、さほど強く言えない・・・・・・・・・だから日本にいる外国人が街中で困っている時は、英語圏の人であろうとなかろうと手を差し伸べる)。

ところで、フランスに留学していた当時は、若さゆえに・・・・・・とにかく、フランスにいて英語で話しかけられることを嫌った。これがまた異常なくらいで、フランス人に英語で話しかけられる度に“一瞬にして顔色が変わる”から、一緒にいる友人にはいつも面白がられた。これは大抵観光地(特にパリ)で起こる現象なので、田舎にいると英語で話しかけられることもなく心は穏やかでいられた(言語問題以外で憤慨することはしばしだったが)。

フランス人に英語で話しかけられると、相手の言っていることは100%理解していても、必ずフランス語で「Pardon?(パルドン?)」と聞き返した。そうすると、相手は笑顔でフランス語にしてくれるのだが、英語で話しかけてくるのは相手にしてみれば大抵は親切心からの行為だ。親切心というよりも、“外国人観光客”というだけで、頭の中のスイッチが英語になるフランス人も結構いた。そういう場合は、こちらがフランス語で話しかけているのに、英語で返されると反撃心剥き出しになったものだ。

パリのシャンゼリゼ通りにある映画館では“パルドン?”攻撃をしたこともある。「今の時間はメンテナンス中だから入れない」と言っていたのだが、こちらはずっとフランス語で通しているのに、相手はずっと英語。それは逆に失礼だ。理解しているのに理解していないフリをする僕もどうかと思うが、しまいにキレてしまい、
「英語はよ〜〜〜〜〜〜〜〜く分かるけれど、私はさっきからあなたにフランス語で話しています!!!!!!!!」
と捨て台詞を残して去ったら、相手は立ち上がって謝ってきた・・・絶対に謝らないフランス人を謝らせたと、いまだに、その時一緒にいた友人はこのことを笑いながら語る。

やりすぎの場合もあった。美術館に入る際の持ち物(カバン)検査で "Open, please!" と言われた時も、いつもの癖で反射的に“パルドン?”とつい口から出てしまった。すると相手は、笑いながらフランス語で言い直してくれたのだが、僕も可笑しくなってしまった。たかが“オープン・プリーズ”に対して、そこまで頑なに突っ張らなくてもいいのに!

日本人の友人と3人旅をした時のこと。Dole(ドール)という田舎町で、夜行列車に乗り換えることになっていた。カフェで時間を潰してから、ホームに向かったところ、沢山の人たちがホームから移動していた。もしや、電車がストップ?それとも遅れている?と少し不安になっていたら、とても感じのいい40代前半くらいのおじさんが、「電車が1時間遅れるって」と英語で教えてくれた。その時も僕は咄嗟に“パルドン?”ときたもんだ。これまたおじさんは、笑いながらフランス語で言い直してくれたのだが、僕がわざと“パルドン?”と言ったことを、そのおじさんも瞬時に理解したらしく、お互い笑った。でも僕は罪悪感にかられた。親切心で教えてくれたのに・・・そのくらい快く受け止めるべきだった・・・。今でもこのことを思い出すとちょっと胸が痛む。人探し番組に協力してもらって、その人に会ってお礼と謝罪の言葉を、と思うのだが、名前も知らず、顔も覚えていない今となっては、探しようがない。

傑作なのは、当時同時期に留学していた友人(日本人)の切り返し。とあるオフィスでやりとりをしている時、友人は当然フランス語で話していたのに、ずっと英語で返してくるフランス人業務員に対し、友人がしびれを切らして言った。
「フランス語話せないんですか?」

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使っているSNSは主に mixi だけだが、MySpaceとFacebookにも一応アカウントを持っている。紹介されてアカウントを作っただけでほとんど使っていないが、さすが世界中で使われているだけあって、ビックリする人から連絡がきたりする。高校時代に1年間アメリカ留学した際に知り合った人からのコンタクトが主だが、帰国して14年近くも音信不通だった人からの連絡は驚くと共に懐かしくて、同時に、僕の名前をフルネームで記憶していてくれたことや、思い出してくれたことが凄く嬉しいと思う。そりゃ、とんでもない騒ぎだ(心の中で)。そしてその繋がりから僕を発見してくれた共通の友達や知り合いが、更に僕にコンタクトしてくれて、正に芋づる式だ。

当時、僕が留学した高校には日本人は他に誰もいなかったし、アジア人自体がほとんどいなかったので(少しインド人がいたくらい)、目立つのは必至。よって、ちょっとしたことですぐに噂は広まり(光の速さだった)、言動行動には慎重にならねば!と思った程だった。壁に耳あり障子に目ありの、ちょっとしたスター気分星(アメリカに障子はないけど)イヒヒ 留学前、アメリカにはいろんな人種がいるので、日本人だからといって特別扱いされない、注目もされない、珍しくもないから自分から積極的にならないと友達は出来ないと、何度も何度も聞かされたが、南部(ジョージア州)という土地柄や気質からか、そんなことはまるでなく、いろんな人にしょっちゅう話しかけられた。最初の頃こそ、沢山の人に話しかけられて「一杯友達が出来た!」と錯覚していたが、実際は挨拶友達止まり、そこから友達という関係まで発展するかどうかは自分次第で、確かに自分から積極的にならないと友達は出来なかった。決していい思いばかりをしたわけではないが(アジア人軽視の差別的な態度をとる人も極僅かだが存在した)、つまるところ、校内では知られた顔になった。クリスマス・コンサートで歌った模様がケーブルテレビのニュースで放送されていたことも、知らぬ人から「昨日テレビに出てたよ」と知らされて知った。

ここ最近、SNSを通じてちょくちょく連絡が来るようになり、時々困るのは、顔も名前も知らない、でも知人かもしれない人からコンタクトがきた時。一瞬無視しようとするのだが、「共通の友人」欄をチェックすると、何人も共通の友達がいる。ということは、同じ学校だったということだ。同じ授業をとっていたことがあるのか(アメリカの高校の授業科目は選択制)、話したことがあるのか、挨拶したことがあるのかさえ分からない。もしかしたらあるのかも知れないと思うと、「承認」してしまう。

僕の「アメリカ留学日記」は、当時の日記を元にして細かく書いたものだが、友達によって、日記にも書かれていないすっかり忘れていたことを思い出させてくれたり、ごく最近コンタクトしてきた人は、「何それ?」と思うような新事実というか弁解なのか、当時の新真相を書いてきた人もいた。プロムという卒業ダンスパーティーに行く相手を探していた時、先生がミッシェルを紹介してくれたのだが、ミッシェルに確認しようとしたら、不機嫌な顔で「そんな話聞いてない」と言われて終わったのだ。おかしいなと思い、翌日先生に確認したところ、ミッシェルが僕に話しかけようとしたら、僕が無視をしたので傷ついたから、プロムには一緒に行かないことにしたのだと言う。まったく身に覚えのないことだった(詳細は第50話「バートン先生」)。

それが、14年ぶりに明かされた真相として本人から聞かされた話では、「私たち一緒にプロムに行こうとしたのよね!でもお互い車がなくて断念したのよね!」・・・これも身に覚えのない話で、車の有無の確認にすら到達しなかったのだ。結局プロムにはデスカという超美女と一緒に行ったのだが(この組み合わせが決まった時も、光の速さで校内に情報が駆け巡り、フランス語の授業の時はプロムの話で持ち切りになり、授業を中止して1時間丸々僕のダンス・レッスンになった程だ)、SNSに載っている僕とデスカのプロム写真のコメントに、ミッシェルは「これ11年生(高校2年)の時の写真だよね?本当は私たちが一緒に行くはずだったけど、車がなくて結局行けなかったんだ!」と投稿していた。謎は謎のまま終わるばかりか、謎は謎のまま生き続ける。しかしこのプロムも、ペアを決める段階から終わりまで滑稽だった(詳細は第63話「言ったり言われたり」、第64話「プロム」)。

振り返ると切ない。当時関わった沢山の人たちはどうしているのだろうか。会いたい人たちは沢山いる。でも、きっと僕に会ったら皆ガッカリするだろう。当時と比べて、僕の英会話力は悲惨な状態になってしまったから!
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マックスさんに電話しなきゃ!と思っていたら、夕方駅前のタバコ屋でタバコを買っているマックスさんに偶然遭遇。3歩ほど行き過ぎた後、「おや?」と思い、そのまま3歩後戻りした僕。我が家から徒歩20秒位のところにある会社で働いている彼とは、意外とバッタリ会うことは少ない。会社の人たちと飲みに行くところだったようだ。電話しようと思っていたから丁度良かった。

さてはて、昨日の日記に書いた、14年ぶりに連絡をくれたアメリカ時代の友人とは、メッセージのやりとりが続いている。きっとお互い極度の興奮状態。アメリカ留学記に書いたように、一緒にプロム(卒業のフォーマルなダンス・パーティー)に参加したのだが、僕がすっかり忘れていたエピソードを思い出させてくれた。というのも、そもそも、今になってどうやってSNSで僕の名前を探し当てたのか?という疑問があり、フルネーム覚えてた?と訊いたら、ちゃんと "Ko Takahashi" とスペルまで正しく覚えていたようで、彼女の兄弟が今偶然にも日本に住んでいる為、その時、家族と僕の話をしていたのだそうだ。しかも、プロムの時、僕が彼女のお母さんに花をプレゼントしたことを、そのお母さんが覚えていて、そんな話などを懐かしくしていたらしい。

当の本人、花をプレゼントしたことなどさっぱり覚えていない。思うに・・・僕のホストマザーが気を利かせて、僕に持たせてくれたのだろう。誰よりもホストマザーが僕のプロム参加を喜んでいたから。当時、ホストマザーは29歳だった。大人に見えたなァ。31歳の今の僕よりも。

そんなわけで、あらゆる思い出が蘇ってきて、興奮状態で毎日のようにメッセージをやりとりしている。留学記にも出てくるフィリップと、数年前初めてメールのやりとりした時のことを思い出した。あの時もお互い、相当な興奮状態だった。留学が終わって何年も経った後、現地の友人や先生たちとやりとりを交わし、僕のことが忘れられていないと知ると、じんわりくる。
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東京も、電車に乗れば1時間もかからず自然豊かな郊外に行けます。幻想的な蒼い空と夕暮れにも出合えます。

子供の頃、東京に来る度に、東京とは物凄いところ(=とてつもない大都会)に見えて、興奮を抑えきれなかったけれど(といっても、常に至って冷静な子供だったが)、今はもう慣れてしまったようで、それが少しつまらない。でも、やはり銀座辺りに行くと今も少し興奮します。

ちなみに、子供の頃は、何の根拠もなしに東京の人はオナラをしないもんだと思ってました。だから、夏休みに東京から遊びに来た親戚がオナラをした時、僕はとんでもなくビックリしたのです。そして母にこっそり言いました。
「東京の人もするの?」
誰にも聞こえないようにこっそり言ったのに、母は大声で笑い、すぐに全員に暴露してました。恥ずかしかったです。でも、僕にとっては衝撃だったのです。東京人も僕らと同じようにオナラをするということが!懐かしい思い出です。
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昨日書いた高校時代の語学研修ネタからもうひとつ。

デンバーでは3週間、2人1組になってホームステイをした。僕のホストファミリーの姉夫婦宅、母宅にもクラスメイトがホームステイをしていた為、この3家族は常に行動を共にしていた。よって、午前中の授業、午後のアクティビティ(課外活動)が終わった後は、毎晩賑やかだった。大抵は僕のホームステイ先に集まって、ワイワイやっていた。

ある夜、地下にある僕の部屋で、トランプをしていて遊んでいたのだが、ちょっとした諍いから、一緒にホームステイをしていたYの機嫌を損ね、それが収まったと思ったら、次は、姉夫婦宅にホームステイをしているマサの機嫌が悪くなってしまい、その場の雰囲気は最悪となり、いたたまれなくなった僕と、マサと一緒にホームステイをしているマホリは2人で1階のダイニング・ルームに上がった。

マサの態度に腹を立てているらしいマホリは興奮してきたのか、普段から不満に思っていたことを口にし出した。
「アイツ、朝起きた時の態度が、すんげ〜ムカつくんだよ!おはようって挨拶しても、すっごい素っ気無く“おはよ”って目も合わさず返してくるし。朝、アイツ機嫌悪いんだよなぁ」
それまで、マホリの口からマサに対する不平不満は聞いたことがなかったので少し驚いたが、そりゃあ毎日毎日寝食を共にし、行動していれば何かは出てくるだろう。そしてマホリの言葉は止まらなくなった。僕は聞いているだけだったが、そもそも、地下と1階の距離は全く離れておらず、しかも、ドアも閉めていない。更に、興奮しているマホリは声を静めることもない。マサに聞こえてるんじゃないか?と思った僕。
「大変だねぇ。じゃあ、今夜なんて(険悪にもなってるし)最悪じゃん」
マホリは憂鬱そうな顔をしていた。僕は、今の話をマサに聞かれてるんじゃないかとハラハラしていた。

翌日、僕はマサに恐る恐る聞いてみた。
「昨日、マホリと上で話してたこと・・・」
「うん、全部丸聞こえだった」
そりゃそうだ。ドアは全開で、階段上がってすぐのところで話していたのだから。しかし、マサは賢い。
「でも、あれを聞いて、“あ〜、マホリはそう思ってたんだ”と分かって、態度を改めたよ。実は低血圧だから、朝は機嫌が悪いんじゃなくて、あれで精一杯なんだよ〜」
マホリのトークが全部丸聞こえだった、と聞いて僕は思わず笑ってしまった。でも結果的には良かったようだ。この話は、今でもマサと会うと笑い話として話題に上る。

丸聞こえといえば、シューのホームステイ先では、夜になると夫婦のアノ声が聞こえてくると言って、げんなり顔で嘆いていた。ステイ先を変えたいと言うほどイヤな思いをしているようだった。実はこの問題、決して珍しい話でもなく、ホームステイをすれば結構な確率で遭遇する。あの夏もシュー以外に言っていた人もいたが、僕自身、デンバーでこそ無かったものの、その後、ジョージア州の2件目のホームステイ先では、しょっちゅうソレを聞くハメになった。確かにいい気分はしないものの、さすがに慣れる。僕の寝室が夫婦の寝室の真向かいだったので、それはそれはよーく聞こえたが、慣れれば「またか」と思うくらいで気にならなくなる。ある時は激しすぎて部屋が揺れ、さすがにその時は「地震か?!」と焦ったが。・・・まぁ、そんなものは、フランスでのホームステイ先に比べれば序ノ口だったけど。
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