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大学時代は愉快な友人たちのみならず、とてつもなくユニークな先生たちに囲まれて過ごした。暇さえあれば、先生とお喋りをすべく、教授の部屋(研究室)に行っては談話を楽しんでいた。放課後だけでなく、授業の合間の空き時間に、ひとりで、もしくは友人たちと研究室に赴く。目当ての先生が不在の場合でも、大抵は誰かしらの研究室に明かりがついているので、意気揚々と専攻語(フランス語)の先生の研究室をノックした。特別な用はない。それでも、「何の用?」と訊かれることはなく、「いらっしゃい、いらっしゃい」の如く、快く部屋に招き入れてくれて、談話に講じる。他の皆が「怖い」と言っている教授のことも、僕は胸をしめつけられる程の面白さを感じていたので、何の抵抗もなく冗談話が出来た。食事に行ったり飲みに行ったりすることもあったし、ご自宅に招かれたこともあった。

フランス語学科の先生のみならず、専攻以外の授業で「面白い先生!」と思えば、僕たちは研究室に赴き冗談話等で盛り上がり、「飲みに(食事に)行きませんか〜?」と誘う。大好きな教授陣とのひとときには、格別なものがあった。

フランスに1年間、タダで留学するチャンスを得られたのも、僕の大好きな美人の英語の先生との会話がきっかけだった。ロータリー財団の試験を受けるべき、という強い薦めに従い、その先生のアドバイスと、フランス語学科の教授陣の多大なるサポートがあり(更には僕とは何の関係もなかった中国語学科の教授まで登場した)、半年以上にも渡る難関の試験をパスし、至れり尽くせりのロータリー奨学生として渡仏が出来たのだ。

大学に入学して一番最初の授業の時、教授は高校卒業したての僕たちに釘を刺した。
「晴れて大学生になって、これから存分に遊ぶぞ〜!と思っているならば、進級は難しいです。テストも沢山あるし、他の大学のように簡単に単位が取れるようなカリキュラムではありません」
実際、我々の時間割表は毎日必修科目でぎっしり埋まり、土曜日にまで必修科目が入っていた。小テストは頻繁にあり、真剣に勉強をしなければついていけないが、僕はビビるどころかワクワクし、それが語学習得には最高の環境だと思った。授業は全て興味深かったので、苦ではなかったのだ。留学をしなくても、あの環境を最大限に活用すれば、相当な語学力が身に付くはずだ。

ガイコクゴが出来れば就職には困らない、どこにだって就職出来るでしょう!とよく言われるが、それは全く以て誤解である。専攻分野を活かした職に就く人はほんのわずか、極々一部というのは、どの専攻(学問)でも同じことで、外国語に至っても御多分に漏れず。専攻語を活かして職を得た人はそんなにいない。でも、それも不思議ではなかった。僕たちのような語学系の人たちは高校時代から、そして大学に入れば尚更先生たちに口を酸っぱくして言われるのだ。
「語学だけが出来ても就職先はない。言葉は手段であり、目的ではない。だから語学を活かしたいのなら、それにプラスαがないとダメ」
まぁ、僕はそもそも語学を活かした職に就こうとは全く以て思っていなかったので、自分には関係のないことだと思っていたけれど、それでも耳にタコが出来るほど聞かされた言葉であり、実際真実である。「語学=職に困らない」という間違った認識を、いまだに耳にするのが心苦しい。

教授陣との会話の中で、先生の専門分野について聞いている時も最高に楽しい時間のひとつだった。先生が大学で専攻した好きな分野の学問を、活かすも活かさないもなく、そのままその研究に一生を捧げている姿が煌めいて見えた。そしてそれを語る時は生き生きとしていた。先生が学生時代から抱いてきた、学問に対する関心を聞くのが好きだった。そしてそれは、どれもこれもユニークだった。先生の学生時代や留学時代の話を、僕は目を輝かせて聞いていたと思う。好きなことを職業にするのは簡単ではないけれど、でも、今目の前にいる人は正にそれを現実のものにした人なのだ!僕たちの話を聞くのも上手くて、話も上手。話は尽きない。“学生と教授”なのになぜか友達みたいな感覚もあったし、“ひとりの人間対人間”として接してくれているような嬉しさもあった。

大学教授は研究職であるから、教えることに至っては本分ではないと、誰かが言っていたが、僕が当時出会った先生たちは最高だった。僕はいまだに、先生たちの言葉をよく思い出す。とある先生は、
「授業も一種のエンターテインメント」
と言った。1時間半という長い時間をいかに集中して聞かせるか。余談があったり、冗談があったりもする。そうだ、何もコンサートホールやテレビの中だけがエンターテインメントではない。極々身近なところにもエンターテインメントは存在するのだ。

卒業式の日、担任の教授がクラスの学生たちに「京都のどんなところに影響を受けたか」と訊いた。僕の番になった時、僕が言葉を発するよりも前に、先生がおもむろに話し出した。
「君の場合は、君が“影響を受けた”というよりも、周りの人たちにいろんな影響を“与えた”んじゃないかなぁ?」
そう・・・4年間、関西弁を真似ることもなく、皆のリクエストに応えて庄内弁を貫いていたのだ。

僕は今、音楽をする身として、あの時の言葉が胸にずっしり響いている。

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