スマホ版





◆関連リンク
◆更新履歴
◆最近のコメント
さっき、ネット上でチラリと見た「YOUR SONG」というタイトル。一瞬にしてウワ〜〜〜ッと思い出した出来事がある。

これはエルトン・ジョンの大ヒット曲(邦題「僕の歌は君の歌」)。僕が高校2年の時、アメリカの高校に1年間留学する1ヶ月前の1994年7月、クラスメイト全員でコロラド州デンバーに語学研修に旅立った(これが僕たちのクラスの修学旅行だった)。3週間ホームステイをしながら語学学校に通い、その後の1週間は旅行というスケジュールだった。学校への送り迎えはいつもホストファミリーがしてくれていた。ある日の帰り、ラジオから流れてくる歌に合わせて、妙に上手く、気持ち良く歌うホスト・ファーザー。印象的なメロディーに衝撃を受けて「これは誰の何という曲?」と訊いところ、それがエルトン・ジョンの「YOUR SONG」だった。

3週間のホームステイが終わり、デンバーからシアトルに移動し(そこで前年まで我々の英会話の専任講師と再会)、1泊した後、船でカナダのビクトリアに渡った。隣の国なのに雰囲気がまるで異なり、一同、大・感・激!ウッキウキしながらの買い物中、僕はCDショップでエルトン・ジョンの「YOUR SONG」の入ったベスト盤を買った。

ホテルの部屋はとても綺麗で広くメゾネット・タイプで、寝室が2階にあった(4人で1部屋)。CDウォークマンでワクワクしながら「YOUR SONG」を聴いた。キュンとくる切ないメロディーに、エルトンのイギリス英語がマッチして、心を鷲掴みにされた。

ところが翌日、観光を終えてホテルの部屋に戻ると、前日買ったばかりのCDが消えていることに気付いた。どこを探してもない。ベッド・メイキングの人に盗られたとしか考えられなかった。他に何を盗られたわけでもないし、ただのCD1枚なのだから諦めもつくが、高校生の身、凄く悔しかった。また同じものを買うのかと思うとげんなりする。すると、友達(つちふみさん)が同じCDを持ってるから、帰国したらあげると言ってくれた。ラッキ〜〜〜!!

デンバーに留学する2人をアメリカに残して、8月中旬に帰国。僕はその5日後、ジョージア州での留学生活がスタートする為に、再び渡米することになっていた(今思うと凄いスケジュール!でもビザの関係で一度帰国せねばならず、選択の余地がなかった)。出発の朝、沢山のクラスメイト、先生方、そして家族が駅まで見送りに来てくれた。そこでつちふみさんに、カセットテープや手紙と共に、約束のエルトン・ジョンのCDを貰った(確かに同じCDで、しかも日本盤なのに、なぜかカナダで買ったCDより1曲少なかった。普通逆でしょ!)。つちふみさんの、これまた泣けるメッセージ入りで!!

ジョージア州での留学生活がスタートすると、クラスメイトでとにかく楽しく過ごしたコロラドでの1ヶ月間とは打って変わり、灰色の毎日に突き落とされた(詳細はアメリカ留学記を)。「笑う」ということを一切忘れた生活に悶々とする日々。僕の心の慰めは、音楽だった。日本から持参していた日本の音楽と共に、エルトン・ジョンのCDもとにかくよく聴いた。「YOUR SONG」を聴くと、口ずさんで歌っていたコロラドの優しいホスト・ファーザーのこと、クラスメイトのこと、あの明るい1ヶ月のこと、そしてカナダでのことを鮮明に思い出されて泣けてくるのだった。

そのCDに入っていた曲で「YOUR SONG」以外によく聴いていたのが、
「BORDER SONG」。邦題→人生の壁!!!嗚呼、16才の夏・・・。

あれから14年経った今でも、「YOUR SONG」を聴くと、1ヶ月間の語学研修のことを鮮明に思い出す。16、7才の高校2年生が24名、1ヶ月間四六時中毎日一緒にいてモメないはずがない。あっちで揉めては仲直り、こっちで揉めては仲直り。そんないざこざも、そしてとにかくネタには事欠かないほど笑撃エピソード満載の出来事も、切なくなりながらも、全部ニヤけながら思い出す。

そして、「BORDER SONG(人生の壁)」は、楽しいことが1つもなかったジョージアでの最初の1ヶ月を思い出したくなくても思い出して、どんより暗くなるのでもはや聴けない・・・。

P.S. つちふみさん、その節はCDありがとう。でもって、その後は爆笑レターもありがとう。改めて。
| 思い出話 | comments(2) |
チョイト仕事で、新横浜の辺りに行って来た。目的地まで辿り着くには新横浜駅から更にバスに乗らなくてはならない。古今東西、バスはいまいち分かりにくい。でも、大都市圏であると、電車ではカバーしていないところまで細かくカバーしているので、これがまた侮れない。東京もパリも。

東京でバスに乗ることは滅多にないが、実は意外と便利なのだ。たとえば、渋谷から広尾や六本木に行く場合、距離としては近いのに、電車だといちいち乗り換えなくてはならず面倒だが、バスならば1本で行ける。でも、僕はたとえ面倒でも、電車を使ってしまう。バスを待ってる時間がイヤなのだ。

さて本日、乗り場が分からない、何番のバスなのか分からない、そのバスがそこに行くのか分からない、何もかも分からないのに、近くにいたおばさんから「このバスは○○に留まります?」と訊かれてしまった。こっちが訊きたいくらいですヨ。ようやく探し当てたバスに乗ろうとすると、今度はまず運賃を払うのにあたふた。早く払わないと次の人に迷惑が・・・ああ迷惑が・・・財布を出し、210円入れるはずが205円入れてしまった。ああ間違えて5円入れてしまいました。更に10円入れる。5円返して。でも返ってきたのは10円。
「(機械の関係で)5円は返せないんで、10円返します、いいですよ」
すみません、運転手さん。210円のところ、205円で乗ってしまいました。運転手さんに5円損させてしまいました。

そういえば、と思い起こす。京都に住んでいた頃のこと。バスに乗り、両替しようとしたら1万円札しかない。運転手さんにそれを告げたら、1万円はくずせないと。それじゃ払えませんよ、こちとら小銭もないですし。
「今回はええよ!」
無銭乗車してしまいました。

子供の頃のことも思い出す。小学校時代、家からわずかバスで5分のところにある、母方の祖父母宅に、学校が終わるとしょっちゅうバスで通っていた。そんなある日、バスに乗ったら、財布を忘れたことに気づいた。青ざめた。どうしようか??!!するとそんな時に限って、知り合いのおばさんが乗り込んで来た。なんたる幸運な偶然!でも、あの時の70円は返さないまま、あのおばさん(祖母の友達だった)はあちらに旅立って行った。

お金を忘れてバスに乗り込んだのは、他にもあったかも知れない。人生で、バス代をいくら踏み倒したのだろう?

しっかし、こんなこともあった。これまた小学校時代、バスに乗ったら、乗客は僕のみ。すると、いきなり運転手が歌を歌い出した。そして、上機嫌な運転手は僕に「どうだ!ウマいか?」と問うてきた。正直がモットーであった子供の僕は、まだ“お世辞”などというものを知らなかった。無表情のまま即答した。
「普通だ」
| 思い出話 | comments(7) |
クローゼットの中を漁っていたら、大学時代に友達とやりとりしたメールのコピーが何枚か出てきたので、恐る恐るパラパラと読んでみた。

引っ越しの時に大量にモノを捨てたと言いながら、こういうものはやはり捨てられない。大学1年の頃、ちょうどインターネットやEメールが一般庶民に広まり、僕たちは休み時間や授業後に、こぞってコンピューター室に行ったものだ。今やパソコンは1人1台、高校生が留学先にまで持参するという何ともスゴイ時代になってしまったが、当時はまだ携帯メールだってカタカナの時代で、漢字が打てる携帯は「スゲ〜!!」なんて驚いていた程だ。

大学1年の終わりから2年の初め頃に友達とやりとりしていたメールを、なぜコピーして保存しようとしたのか、今となってはさっぱり分からんが、すこぶる貴重である。内容は他愛もないことだ。毎日学校で顔を合わせ、時には夜遅くまで語らい、はたまた電話でも話しているというのに、メール通信まで!とにかく通信手段全てを使わないと気が済まないというくらいのマメさである。青春は熱い。しかも、手紙まである。

当時は同じ大学の友人たちとよくメール通信し合っていた。男も女も。クラスメート、クラブやサークルの仲間、先輩、後輩・・・。メールアドレスのアカウントが学籍番号だったので、簡単にやりとりが出来たのだ。

もう10年以上も前のこと。懐かしいメールを読んでいたら、笑えました・泣けました・痛みました。当時は、まるで全てが永遠であることを信じて疑わないような気持ちでいた。その時間、空間が当たり前のように思っていた。でも、当たり前でもなく、永遠でもない。同じ時間は二度と戻らない。当時の自分に、そう告げてあげたい程だ。

優しい風に吹かれ 未来に向かいただ走り
時につまづき転び いつでも皆側にいて
あの頃 僕たちは「永遠」信じた
時間も忘れ 語り尽くした

(高橋功 「青春の風」 2003年作)←長らくライヴで歌ってないな…
| 思い出話 | comments(2) |
とにかく物が捨てられない性分だった僕。子供の頃なんて特に捨てられず、授業で使ったプリントやら何やら、貰ったり買ったりしたシールやらノートやら、絶対使うことのないであろうガラクタも、何も捨てられなかった。ゆえに、実家には僕の「一生使わない不要物」が山のようにある。

3ヶ月前、引越しの為、東京のアパートで荷物の整理をしている時、山のようにあるモノを、ロフトのない引越し先では全部仕舞い切れないと分かっていたので、思い切って処分する決意をした。ひとつ捨てたら、もう止まらない。あれも捨て、これも捨て、すっかり「捨て癖」が付き、勢い余って必要なものまで捨ててしまった。けど、今はもう要らない物への執着はなくなった。

というわけで、今回の帰省中、実家に置いてある不要物を整理した。なんでこんなもの取っておいたんだ?!というガラクタが驚く程たくさんあった。呆れたネ。その中に、フランスに留学中、授業で使っていたノートが残っていて、開いてみたらこれがまた面白いのなんのって!!落書きと、居眠りでミミズになっている文字だらけ!!その一部を記念として写真に撮ったので、ここで披露します!


これは落書きではないが、こんな例文があるなんて、いかにもフランスっぽくて笑えた。


聞き取りのメモだろうか?!集中力が途絶えたのか、いつの間にかミミズ文字。


途中眠くなってミミズ文字だが、いつしか復活してちゃんとノートをとっている。


ミミズ文字はないが、よっぽど退屈だったのだろう。右上に「暇」という字。
先生も周りも日本語が分からないのをいいことに・・・。


あちゃー。こりゃひどい。下には、フランス語で
「クラスを変えよう。この先生には耐えられない」と落書きする始末。
| 思い出話 | comments(8) |
今宵は渋谷に友達と飲みに行った。犬にそっくり。頭のデカさは尋常でなく、声もデカい。時間と共に客も増えると、お互いの声はどんどんデカくなる。そんな友と出会ったのは、今よりももっと若かりし頃の、暑苦しい8月下旬。
「アッ!今日じゃなかった?」
「確か30日辺りだったよね」
「スゴイ。えーと、30だっけ?」僕が犬に問う。
「29だよ〜!」犬が吠えた。
8月29日に出会ったってことか?と思い、「あれ、そうだっけ?」と問うた。
「30はアナタでしょうに」犬が吠えた。
「・・・?・・・じゃなくて!年齢じゃなくて!日にち!!!」

あの暑苦しい8月下旬、確か29日か30日だったと思うが、我らは怪しいところで出会った。そこには同年代の若者が30人程いた。ほとんど女性。僕がその部屋に入り、目に飛び込んで来たのは、巨漢の男、その隣に怪しげなオジサン、そして犬。その他は皆女性。

怪しげな説明をされ、昼食の弁当まで出され、怪しい説明の後、歓迎パーテーが開かれた。食べ物と飲み物がわんさか出た。
「怪しい・・・」と、僕は犬に呟いた。
犬は朝から馴れ馴れしく、僕に話しかけてきていた。僕の素っ気無い応対にもめげず、いちいち話しかけてくる。面倒臭いと思いながら、答えているうちに、次第に親しみを覚えた。しかし、まさかその後何年も付き合いが続くとは思いもしなかった。

犬に限らず、その怪しい場所で、沢山の出会いがもたらされ、様々な人間模様を見ることになるとも、その日は予想だにしていなかった。

その日は、バイトの初日だった。暑苦しい夏の日。
我らは、その会社の立ち上げによるオープニング・スタッフだった。だから、バイトは皆同期。

「辞めよっかな。怪しいし」
僕が犬に呟くと、すがるような目で僕を見た。
「えっ?!続けましょうよ!明日も必ず来て下さいよ。高橋さんが頼みの綱なんですから」
巨漢男と怪しいオジサンの方をチラリと見ながら犬が言った。

翌日、結局出社した僕の目に飛び込んで来たのは、前日よりも半分の人数。その翌日は更に減り、結局10人足らずしか残らなかった。どんどん募集してどんどん人も増えていったが、最初のメンバーをはじめ、皆仲良くなり、まるで学校のようだった。振り返ると、とてつもなく、眩しい・・・。

その頃、僕の精神状態はボロボロだったが、若かったことと、バイト先の学校のような楽しさがバランスを保っていた。

実際のところ、僕が最初思ったような大袈裟な怪しさはなかったのだが、その後、会社はとんでもない規模にまで成長していった。「辞めてやる!」と幾度となく大騒ぎし、まぁ、実際僕は全然マジメでなかったので、いつクビになってもおかしくなかったのにも関わらず、初期メンバーの中で一番長く勤めていたのは僕だった。いつの間にか、見渡すと最初のメンバーはひとりもいなくなっていた。毎日顔を合わせていたけれど、もうプライベートで時間を作って遊ぶしか顔を合わせることはなくなった。

本当にいろんな人に出会い、本当にいろんなことがあった。悪い人にも出会った。突如行方不明になった人もいる。でも、付き合いがいまだに続いている人は何人もいる。

犬は僕の悪事を思い出しながら、笑っていた。「そんなことやってたねぇ〜」と僕も久しぶりに思い出して笑った。

怪しさから始まった物語は、怪しさへの反発と風変わりな風景の日常によって、多くの笑いを引き起こした。意味不明、おっかない、ありえない、そんな人や事件も多くあったが、でも本当に良かった。怪しくて。
| 思い出話 | comments(0) |
子供の“夢中力”や“空想力”にはモノスゴイものがある。

僕もそうだった。何台ものピアノが載っているカタログを飽きもせずに来る日も来る日も眺め、いつの日か自宅にグランドピアノが置かれることを夢見た。

月刊誌「明星」に付いてくる歌本(ヤンソン)を大事に保存しては、何かと取り出して眺める日々。新譜情報をうっとり眺めては、「宝くじが当たったら、欲しいレコード(CD)全部買う」と夢見た。

家にあるLPレコードを取り出しては、何度も見ている写真や歌詞カードをうっとりと見つめ、その中に無限に広がっているように思える夢の世界へと想いを馳せた。

文房具に多大なる関心を寄せていた僕は、文房具屋にいれば何時間でも時間を潰せた(今は無理)。あらゆる文房具が欲しくてたまらなかった。挙句の果てには「領収書」なるものまで、喉から手が出るくらい欲しかった。ペン類に関しては子供のクセに妙なこだわりがあった。

そして、中学時代といえば、留学本。頭の中は芸能界と留学のことで一杯だった。中学を卒業したらアメリカの高校に進学したいという留学志望を言い出してからの、本格的な親との闘いが始まり、僕は親を納得させる為に「留学ブック」を毎日欠かさず読みまくった。何度も何度も、何度も何度も。読んでは海の向こうに想いを馳せた。洋楽も聴き出した。留学経験者の体験談を全文一語一句違わぬくらい諳んじた。親の猛反対が闘志を掻き立てた。

あらゆる事情が重なり、その夢は幻に終わった(詳細はアメリカ留学記を)。力が抜けた。やり場のない思いを、親にしかぶつけられなかった。正規留学の代わりに、地元の高校の国際コースへの進学(当時、クラスの3分の1が留学した)と、1年間の留学を許された。ホイホイとやりたいこと全てをカンタンに成し遂げたわけではない。長きに及ぶ、壮絶な闘いがあったのである。

ホソキセンセーに言わせれば、ちょうど大殺界のド真ん中だった頃のアメリカ留学期。その全貌は「アメリカ留学記」に記してあるので省略するが、夢と現実のギャップを初めて知ることになる。でもって、あの状況の中で、僕は夢中になって読み漁った「留学ブック」を読み返しては、そのギャップを心の中で埋めようとする。

そう、夢は夢のままの方が美しく終わる。夢が叶った時は、「あれ?」とうろたえる。願ったのに叶わなかった時は、言葉なしにうなだれる。大きかろうが小さかろうが、夢は時に残酷なもの。中島みゆき様も歌っている。

♪夢なら醒める いつかは醒める 見なけりゃよかったのにと言われても
 それでも夢が醒めるまでのあいだ 見てたことを幸せと呼びたいわ
 (中略)
 幸せになる道には2つある 1つめは願いごとうまく叶うこと
 幸せになる道には2つある もう1つは願いなんか捨ててしまうこと

どちらも贅沢なことらしい。

子供のそこはかとない空想力は、大人になってからでは味わえない夢の幸せがある。あまりにも空想し過ぎて、叶うこと自体有り得なかったりして、その現実にショックを受けつつも、雲の上に乗るような楽しい夢を見る。そして十代の多感な時期は、脇目もふらずに「何かに夢中になる」ことが、とても重要なのではないかと思う。
| 思い出話 | comments(2) |
毎日うだるような暑さ。汗だくどころの話じゃございません。それに加えて、連日アッッタマに来ること雷とゲンナリしょんぼりの連続で、体が溶けてしまうんじゃないかと心配です汗

さて、「うだる」とは、庄内弁では「捨てる」という意味である。

山形県の庄内地方(日本海側)と内陸地方では方言がガラリと変わり、とても同じ県内の方言とは思えないくらいに、アクセントも語彙も異なる。庄内の学校には、なぜか必ず内陸出身の先生がいた。方言が違うので、先生から内陸弁が出るとドッと笑いが起こる。

小学校2年生の時の担任の先生は内陸から来た人だった。授業中、僕が「紙をさばきました」と発言した時、先生は首をかしげた。
「さばく?どういう意味?」
なぜ“紙をさばく”の意味が分からないのか、子供である僕たちには分からない。理解していない先生に、僕はジェスチャーで答えた。
「あ〜、“破る”ということ?」
そう、庄内弁では「紙を破る」を「紙をさばく」と言う。

ある日も、僕は授業中に“捨てる”と言うべきところを「うだる」という表現を使い、先生の首をひねらせた。標準語なら、「うだるような暑さ」と言う時にしか、「うだる」という単語は使わない。

言語の違い、アクセントの違い、語彙の違いに、僕は当時から興味深々であった。そして時を経て僕の専攻は語学となり、言葉を見つめ、表現を見つめ、母語を見つめた。それは作詞をする上でも、歌う上でも、大きく大きく役に立っている。

うだるような暑さの夏が来ると、僕は必ず小学校2年生の時の担任の先生を思い出す。
| 思い出話 | comments(10) |
先日、京都のライヴに来て下さったフランス人の先生とは、在学中は元より卒業してからも連絡を取り合い、京都でも東京でもお会いしたりして交流を続けている。「卒業したら“友達関係”」と先生はよく言っている。教育熱心で、かつユーモアたっぷりなので学生には人気があった。他の先生が「教壇に立つこともある意味エンターテインメント」と言っていたが、正にこの先生はエンターテイナーだと思う。

教材を何冊も出版されているが、その中のひとつ「CAMPUS」という教材には僕が出ている。教科書とビデオがセットになっていて、ひとつのダイアローグで、なんと、もうひとりのクラスメイトでもある友人を相手にフランス語で芝居をしている。ホホホ・・・。お恥ずかしい。その寸劇が終わると、今度はフランス人が歌っている切ない曲のプロモーションビデオ的な映像にも登場する。ハハハ・・・。その映像は寸劇の“その後”という粋な設定になっている。歌は他人の歌だが、まるで「高橋功」のプロモーションビデオのようなもの。でもって、教科書を開くと、そのダイアローグのページで僕が微笑んでいる。いずれも、20歳の寝起きの腫れぼったい顔。先生は若い頃、映画監督を目指していたこともあり、これまた本格的なロケと映像で、よく出来ている。

今そのビデオを観ると、とんでもなく恥ずかしくて大声を上げずにはいられないのだが、改訂版では必死にフランス語で演技したダイアローグはもうなくなっていて、プロモーションビデオ的映像はまだ使っている、という話を聞くと、嬉しいやら寂しいやら、恥ずかしいやら。

そういえば、このビデオの出演依頼を受けたのは、僕が大学3年の夏。大学付近で自転車を漕いでいる時にばったり先生に会った際であった。
「教材のビデオに出ない?そのビデオに出たらきっと有名になって、映画スタアみたいになるかも!」
という口説き文句に、ひとつ返事でOKしたのであった。

僕が4年生の時に、新入生の授業でその教材が使われ始めた。ある日、「ビデオに出てましたよね?」と街中のカフェで話しかけられた僕。同じ大学の1年生だと名乗られた。はっずかし〜!と思いつつ、悪い気はしない。

しかし、「あのビデオに・・・」と話しかけられたのはその一回きり。近年はその先生、「コウのギャラが高くならないうちに、次回作を・・・」などと言っている。が、それからゆうに3年くらいは経っている。次回作ではもうお呼びでないようだ。
| 思い出話 | comments(0) |
もう15年も前になるが、宮沢りえさんとビートたけしさんが共演していた「エースコック スーパーカップ」のCMで流れる歌が好きだった。このCMはシリーズ化されて、新しくなる度に物語も進んでいっていたような・・・。2人の相性もいいし、CMらしいコメディータッチの画に、甘く切ない歌がこれまたいい相乗効果を出して、インパクトのあるCMになったと思う。

でもってこの歌、CM用の歌なのでCD化はされていないのだが、いまだに口ずさむほどよく覚えていて、大好きなのである。

振り返るかな
あの人の背中が
今日は小さく見える
約束せずに別れたけれど
また明日会えるかな
また明日会えるかな


↓クリックして観て下さい。懐かしいですねぇ〜!


| 思い出話 | comments(0) |
京都にて大学時代を送っていた頃、授業中に「田舎」や「山」なる単語が出る度に、クラス中の視線を一気に集める女の子がいた。そういう単語がよく出て来るのはフランス語会話の授業で、十数人足らずで“コの字型”になって座っていたゆえに、全員の顔が見渡せたのである。「田舎」に関連する言葉に反応して皆が即座に視線を寄越すものだから、滋賀県在住の彼女は心なしか“またか・・・”という面持ちで恥ずかしそうにしていた。そして、真っ先に僕が睨まれる。僕が誰よりも「田舎」や「山」に反応して、即座に彼女の方を、今にも笑いそうな顔で見やるからである。しかし、ただ単に滋賀県の山奥に住んでいるというだけで、彼女は野暮ったい田舎娘なのではなく、洗練された都会的な美女だった。しかも子供の頃数年イギリスに住んでいたことのある帰国子女なのであった(といってもイギリスのロンドンではなく、北アイルランドの田舎町だったらしいが)。

かくいう僕なんぞ、東北は山形くんだりから山のみならず、あらゆるものを越えて京都までやって来た正真正銘の田舎モンであった。それなのにヒトを田舎モン扱いして笑っていると、必ずや「ヤマガタに言われたくない!」と攻撃を受ける。しかしその時点で、僕は住民票も京都に移してあったので、正真正銘、立派な京都市民だったのだ。

だがエラそうに、住民票が何だ!そんな紙切れ一枚ごときで「都会人」ぶったところで、生まれも育ちも、心もコトバも、偽りなく山形県は鶴岡市なのであった。しかし、“紙切れ一枚・京都市民”になってラクになったことがひとつだけあった。外国に行って、「日本の何処に住んでるの?」と訊かれる時である。ヤマガタです、なんて言ったって誰も知らない。どうせ知られていないんだから「北」とだけ答えても、「北のどこ?」と訊かれて、仕方なしに「ヤマガタ」と答えると、決まって残念そうに「あー、知らない」と言われてしまう。都市名なんて知らないのに、何ていう町に住んでいるのか知りたい、そしてそれが自分の知っている都市名だったら嬉しい、というのがヒトの心理である。京都市民になってからというもの、堂々と「京都デス!」と答えられた。大抵喜んでもらえた。知っているからだ。たとえ京都を知らない人に当たっても、「大阪の隣」と言うと喜ばれる。さすがに「大阪」を知らない人はいない。知らなかったのはアメリカ人くらいだった。

今では当然の如く「東京」と答える。しかし、今度はどこか味気ない。ジャパンといえばトーキョーなのだ。フランスといえばパリ、なのと同じ。
「ま、今は東京に住んでるんだけども、元々生まれは北の方の“ヤマガタ”ってところで・・・」
などと、訊かれもしないのに説明している時もある。人の心理は複雑である。

余談:去年、数年振りに東京で再会した「滋賀県のクラスメイト」は、更なる磨きがかかり、都会的に洗練されたオトナの女になっていた。しかしいまだに「滋賀県」とバカにされていた。バカにしたのは僕ではない。高校時代は京都、現在は大阪在住だが元々は同じ滋賀県出身の同級生であった。
| 思い出話 | comments(6) |
◆カテゴリー
◆過去の日記
◆オススメ
<< 2/5 >>